「悪霊」は死産児に入る(承前) 

 前回ドストエフスキーのいう「偶然の家族」について少し述べた。この偶然の家族は、日本の死産児について論じるために無視することのできない現象なので、再び取り上げておこう。
 ドストエフスキーはその後半生のほとんどを費やして、この偶然の家族に深く関わった。偶然の家族がテーマになった作品としては、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』などが挙げられる。テーマとしては取り上げていないが、偶然の家族が作品の背景にある作品ということになれば、処女作の『貧しき人々』をはじめ、彼の全作品が当てはまる。また、晩年に書いた『作家の日記』という時事評論では、ロシアにおける偶然の家族の問題を執拗に論じている。
 ドストエフスキーはなぜ偶然の家族にこだわり続けたのか。それは偶然の家族が死産児を産み出すからだ。また、その死産児がロシアを破滅に導くからだ。ドストエフスキー自身、『地下室の手記』を書いていたときようやく回心に向かい始めたのだが(拙稿「ドストエフスキーとヴェイユ.pdf 直」参照)、それまでは死産児だった。彼は『カラマーゾフの兄弟』で描かれたカラマーゾフ家ほどではないが、それに近い偶然の家族から生まれた。公私両面でドストエフスキーが偶然の家族に強い関心を抱くのは当然なのである。
 死産児はなぜロシアを破滅に導くのか。それは、死産児だけに「悪霊」が入るからだ。ここで「悪霊」というのは、ドストエフスキーがその『悪霊』という作品で描いた「悪霊」のことだ。また、われわれに「すべてが許されている」と思わせるもののことだ。「すべてが許されている」という思想を抱く死産児にあふれた社会が破滅に向かうのは当然だろう。そのような社会では、ラスコーリニコフが見た旋毛虫の夢のような世界が繰り広げられるだろう。それは誰もが自分の欲望を満たすことしか考えない世界なのだ。
 前回の繰り返しになるが、「悪霊」とは、漱石の『こころ』の「先生」のように、相手の一枚上をゆくためなら何をしてもかまわない、という風に思わせるもののことだ。「先生」がそんな風に思うことができるのは、「先生」に、そう思う「先生」を押しとどめるものが何もないからだ。このようなモラルの空白状態の中に「悪霊」はしのびこみ、「先生」を使嗾し、Kを出し抜いてお嬢さんに結婚を申し込めと命じたのだ。このため絶望したKは頸動脈を切って自殺したのだ。「先生」はKが自殺して初めて自分の中に「悪霊」がいることに気づく。そして、明治天皇崩御したとき、殉死と見せかけて自殺する。これは自分を殺したのではなく、自分の中に棲みついた「悪霊」を殺したのだ。これはスタヴローギンにしても同じだ。スタヴローギンは自分に罪を犯すよう使嗾しつづける「悪霊」を殺すために縊死したのだ。
 「悪霊」を殺す、これこそパウロのいう「心が砕かれる」という事態なのである(「ドストエフスキーヴェイユ」、p.153)。砕かれる以前の心、つまり、傲慢な心、つまり模倣の欲望に憑かれた心には「悪霊」がしのびこんでいる。だから、その心をこなごなに砕いてしまわなければ、模倣の欲望もその模倣の欲望を突き動かしている「悪霊」も追い出すことができないのだ。
 では、なぜ死産児の中にだけ「悪霊」が入りこむことが可能なのか。それは、先に述べたように、また、この連載の第一回「カナリアとしてのドストエフスキー」で述べたように、死産児の中には「これだけはしない」という歯止めあるいはモラルがないからだ。要するに、入りこむのに何の障碍もないので「悪霊」は死産児に入る。このような事態についてイエスは次のようにいう。

「・・・汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。(ルカ:11.24-26)

 ここで「その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。」とイエスがいうのは(イエスはもちろん死産児という言葉を使わないが)死産児の心の中が空虚であることを指している。それだけではなく、そこでは、何か美しいもので飾り付けまでしてあるのだ。これはじつに驚くべき、余りにも正確な死産児の描写ではないのか。十九世紀の作家であるドストエフスキーは死産児の内面をルカよりも冗漫に、しかし、われわれにも明確に分かるように描く。死産児である『地下室の手記』の主人公の心もまた空虚であり、その心はカントやシラーのような博愛主義者の美しい言葉で飾られている。しかし、その美しい博愛主義は、売春婦のリーザと出会うことによって愚かな虚飾であることが明らかになる。『地下室の手記』の主人公が本当は一杯の紅茶さえ飲むことができれば、世界など滅びてもいいと思っている利己主義者であることが明らかになる。
 ところで、先にイエスが述べた「その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。」という事態は死産児の内面だけではなく、死産児にあふれた現代日本の状況をも指しているのである。敗戦と米国のつくった日本国憲法によって日本人全体がアメリカナイズされることによって、これまで日本の中間集団が保存し伝えてきたモラルが一掃され、その空虚な空間がきらびやかな米国の文化によって飾られているのだ。言い換えると、現在の日本には「悪霊」がしのびこむ絶好の条件がそろっている。村上春樹の作品はまさにそのような事態を忠実に反映している。(続く)