「謎とき」シリーズがダメな理由(5)

和洋折衷のコミックバンド

 すでに述べたように、小林秀雄のいう「「アキレタ・ボーイズ」という和洋折衷のコミックバンド」のひとつである江川・亀山コンビが読売文学賞を受賞した。これはそのコミックバンドが社会的に認められたということを意味する。誰が認めたのか。認めたのは、そのコミックバンドの仲間たちである。自分の仲間だから賞を与えたのだ。
 小林秀雄はなぜ「和洋折衷」と言ったのか。それはこれまで述べてきたように、そのコミックバンドの人々にとっては言語の壁など存在しないからだ。また彼らを「コミックバンド」と呼ぶのは、言語の壁など存在しないという彼らの存在そのものが滑稽であるからだ。
 彼らはAという言語とBという言語のあいだには越えられない壁があると述べる小林秀雄森有正が間違っていると思っている。また、外国語を読むのは一時的に離人症患者になって日本語を読むのと同じだ、という私の言葉を信じない。
 さらに、そのコミックバンドの人たちは、異なった言語のあいだには越えられない壁があるというソシュールの言語理論を誤りだと思っている。ソシュールのその言語理論が誤りだというのならば、理由を世界の言語学者全員に証明しなければならない。その証明が正しいものであれば、亀山の好きな「最先端」の発見、ノーベル賞級の発見になるだろう。
 ところで、そのコミックバンドには仲間が多い。そのコミックバンドの大多数は江川や亀山のような過激派ではない。彼らはひそかに「すべては許されている」と思っている死産児にすぎない。あるいは、その本心を公表すると世間からバッシングを受けるかもしれないと恐れている死産児にすぎない。要するに、江川や亀山などを最右翼(最左翼?)とする、小林秀雄のいう「コミックバンド」と、ドストエフスキーのいう「死産児」は同じ人々を指す。これはすでに述べた冗談だが、彼らの信じる邪教の教典の表紙には「すべてが許されている」という言葉が記されている。そして、その目次のひとつに、「言語の壁など存在しない」という項目があり、そこを読んでゆくと、「ソシュールの言語理論は妄想にすぎない」という言葉に出会う。その理由はまだ書かれていない。
 さらに、その教典の目次のひとつに「文学作品を扱うさいの心得」という項目がある。その心得の具体的な例として、「ドストエフスキーの作品を論じるときは創作ノートや同時代人の証言を利用すべし」とあり、その理由として次のように述べられている。

創作ノートや同時代人の証言を参考にしながら小説の解釈をしないドストエフスキー研究者はバカだ。なぜなら、ドストエフスキーの小説を正確に分析し、理解するためには、まず創作ノートや同時代人の証言を参考にしなければならないからだ。たとえば、ドストエフスキーの同時代人スヴォーリンによれば、『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャは書かれなかった第二部では革命家になる予定だった。だから、このようなアリョーシャ像を抜きにして『カラマーゾフの兄弟』を論じるのはまちがいだ。

 しかし、これは小説、いや芸術というものを知らない者の言葉だ。
 なるほど、小説といえども時代から離れて存在するわけではなく、同時代の出来事を小説の題材に使うことも多い。また、ドストエフスキーの小説のように、19世紀ロシアの小説ということになると、現代の私たちの知らない事実も多い。だから、文学研究者が読者にそういう事実について説明するのは間違いではない。もっとも、それも程度問題で、知らなくても文脈から十分推測できる事柄まで説明されると、いちいち現実に引き戻され感興をそがれる。いや、ここまでは何とか許容できる範囲かもしれない。
 しかし、さらに「謎とき」シリーズや亀山のドストエフスキー論(『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』など)のように、先に挙げたアリョーシャ像まで視野に入れながら解説が行われるということになると、「あなた方は芸術を知らない。」と言いたくなる。そんな風に小説外の事実を取り入れて小説を解説するのは、何の意味もない愚かな行為だ。なぜか。
 私が三十二年前「森有正、そして小説について.pdf 直」を書いたとき、まだ江川たちの「謎とき」シリーズや亀山のドストエフスキー論は出ていなかった。しかし、結果として、すでにその論文で、江川や亀山のように小説外の事実に依拠して小説を論じるのがなぜ間違いかについて説明していたことになる。その説明を次に繰り返そう。(続く)