続・「謎とき」シリーズがダメな理由(3)

(承前)
 「「謎とき」シリーズがダメな理由(5)」で述べたことだが、文学作品のテキストを創作ノートや同時代人の証言などを参考にしながら解釈するのは間違っている。作者の手紙を参考にするのもだめだ。なぜか。
 それは自分で小説を書いてみればすぐ分かることだ。書き始めてみれば、もう創作ノートもへったくれもない。書くしかないのだ。そして、書き上がってみれば、当初意図していたこととはまったく別のものが出来上がる。というより、作品は自分の自由にならないのだ。いくらある意図をもって書き始めても、それが結果として表れることはまずない。小説それ自体が生き物なのである。その生き物が作者を支配する。
 たとえば、オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』を書くことによって、それまで彼を異性愛者として結婚生活に閉じ込めていた殻を破ってしまう。ワイルドは美青年アルフレッド・ダグラス卿と親しくなり、同性愛者として破滅への道を突き進む。作品による同性愛的な欲望の解放ということになれば、三島由紀夫ゴーゴリも同様の経験をしている。彼らは自ら書いた作品によって同性愛者としての欲望に目覚めるのである。従って、作品と作者とは別物だ。いや、別物というと言い過ぎだ。世界の中でもっとも密接に影響を与え合っている別の生き物だというのが正しい。だから、ある作品がどんな風にして作り上げられてきたのかという、その制作過程を検証したいのなら、創作ノートなどは参考になる。しかし、いったん作品が出来上がれば、それはもう創作ノートなどとは別の世界なのである。作品自体が一個の生き物となって、美を定義し、作者をも支配するのだ。
 いずれにせよ、芸術の受容者である私たちは「「謎とき」シリーズがダメな理由(6)」で述べたように、何の先入観もなく、真っ白な心で作品そのものに向かい合うしかない。これが芸術作品に向かい合うということであり、芸術作品の一ジャンルである小説を読むということなのである。そしてその作品の美を味わうことができないのであれば、それは受容者である自分にとってその作品が必要ではないということにすぎない。だから、そのような人はその作品を論じてはならないのだ。なぜなら、その作品を論じるとは、その作品が自分に与えてくれた美を論じるということであるからだ。自分に美を与えてくれない作品までも論じるのは文学史家の仕事であり、それはそれなりに意義のある仕事だが、少なくとも作品を論じる者がとる態度ではない。どうしても論じなければすまないほどの美を与えてくれる作品だからこそ論じるのである。
 死産児である江川・亀山コンビにこのような感情はあるのだろうか。たぶんあるのだろう。しかし、それは死産児としての感情にすぎない。同じ言葉を繰り返すが、かつて死産児であった私がドストエフスキーに惹かれたように彼らも惹かれているのだ。直感によって、ドストエフスキーの作品には自分を死産児の状態から救出してくれる何かがあると感じるので、彼らはドストエフスキーに惹かれる。それもまたドストエフスキーのひとつの読み方であり、私は彼らのその読み方まで否定するわけではない。しかし、それだけでドストエフスキーを論じてはならないのだ。よほどの愚か者でないかぎり、ドストエフスキーに限りなく惹かれている自分には、同時に、ドストエフスキーを論じるだけの能力がないということぐらいは明確に分かるはずだ。それを何のためかは知らないが、むりやり論じると、江川の666説や亀山のマトリョーシャ=マゾヒスト説のような珍説が産み出されるのだ。