亀山郁夫批判

「謎とき」シリーズがダメな理由(1)

はじめに 鬼束ちひろの「月光」という歌は、こんな風に始まる。 I am GOD'S CHILD(私は神の子供) この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?) こんなもののために生まれたんじゃない (『や…

なぜドストエフスキー論はカナリアなのか(補足)

「カナリアとしてのドストエフスキー論」でドストエフスキー論はカナリアだと述べた。私のこの言葉を不審に思う人がいるかもしれない。なぜドストエフスキー論だけなのか。トルストイ論やチェーホフ論はカナリアにならないのか。そう問う人がいるかもしれな…

「日本教」の消滅(承前) 

これまで述べてきたように、死産児の内面と現在の日本の状況は重なる。それは当然そうなるはずであり、日本人の多数派が死産児ということになれば、その死産児たちが生きている日本の社会は彼らの内面を反映したものになるからだ。この点についてあと少し述…

「悪霊」は死産児に入る(承前) 

前回、ドストエフスキーのいう「偶然の家族」について少し述べた。この偶然の家族は、日本の死産児について論じるために無視することのできない現象なので、再び取り上げておこう。 ドストエフスキーはその後半生のほとんどを費やして、この偶然の家族に深く…

日本における死産児(承前) 

これまでの説明で死産児とは何かについておおよその理解は得られたことと思う。しかし、その不十分な説明だけでは、これから議論を進めてゆくとき、読者にさまざまな疑問が生じてくるだろう。そこで、日本における死産児について、あと少し説明しておこう。 …

破滅に向かう日本人(承前)

これまで私は江川卓のドストエフスキー論を批判し、亀山郁夫のドストエフスキー論とその『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を批判してきた。亀山がドストエフスキー関係の仕事をやめるまで、これからもその二人と彼らの仕事を擁護する者たちを批判し続けるつもり…

死産児を食い物にする邪教(承前)

私のいう「真正のドストエフスキー論」とは素晴らしいドストエフスキー論ということではなく、「この筆者ならこういうことだけはしないだろうな」という信頼感を読者に与えてくれるドストエフスキー論のことにすぎない。この「こういうこと」とは、原作から…

カナリアとしてのドストエフスキー論

これまで亀山郁夫のドストエフスキーの翻訳やドストエフスキー論を読んできて痛感したのは、「いくらなんでもここまではしないだろう」という一線を亀山が平気で踏みこえてしまっているということだ。たとえば、亀山による『悪霊』のマトリョーシャ解釈や『…

データ捏造で辞表

きょうの朝日新聞に、患者のデータを捏造した京都府立医大教授が辞表を提出したというニュースが載っていた。 ことの次第はこうだ。京都府立医大の松原弘明教授が患者に、製薬大手のノバルティス社が製造販売しているディオバン(一般名・バルサルタン)とい…

『翻訳の品格』

私は学生だった頃、もう題名さえ忘れたが、あるロシア史の翻訳を買った。しかし、そこに次々と意味不明の文章が羅列されているのに驚いたので、原文を取り寄せ、比較対照した。意味不明の箇所はすべて誤訳だった。初歩的な誤訳が大半だった。そこで、全部で…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(10)

外国人にイソップ言語は分からない すでに述べたように(「亀山郁夫とイソップ言語」)、スターリン体制下の「二枚舌(ないしは面従腹背)(двурушничество)」(亀山郁夫、『磔のロシア──スターリンと芸術家たち』、p.59)と、帝政ロシアで使われた「イソッ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)

フロイト理論をドストエフスキー論に使ってはいけない これまでジラールによるフロイト批判を紹介してきたが、ジラールのフロイト批判にも拘わらず、フロイト理論やフロイト理論から派生したラカン理論を信奉する人は多い。そんなことになっているのは、フロ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(8)

亀山はなぜジラール理論を使ったのか さて、これまでの批判によって最初の約束を果たすことができたと思う。この批判の第一回目で私は次のように述べた。 先に引用した亀山の序文に明らかなように、亀山はこれからフロイトの「父殺し」の理論、つまり、エデ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(7)

すべては模倣の欲望から始まる 前回の最後に紹介したジラール理論のお粗末な「要約」のあと、亀山は次のようにいう。 しかし、じつは私がここに見るのも、シラーの『群盗』という原体験がもたらした余波です。分身のモチーフが、ドイツ・ロマン主義の作家ホ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(6)

分身幻覚について これまで述べてきたことからも分かるように、亀山の『カラマーゾフの兄弟』の翻訳やドストエフスキー論は常軌を逸したものだ。これを放置しておくのはドストエフスキー研究者としてあまりにも無責任なので、私は木下豊房と連名で日本ロシア…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(5)

自分の物は自分の物、他人の物も自分の物 これまで述べてきたことから、亀山が自分のドストエフスキー論の「出発点」にしているフロイトの「父殺し」のシナリオが、ドストエフスキー論では成り立たないことが明らかになった。それにも拘わらず、亀山は『ドス…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(4)

使嗾もない 前回、亀山はジラールのいう「模倣の欲望」=「父親殺し」という考えが理解できないまま『ドストエフスキー 父殺しの文学』を書いていると述べた。このため、亀山は自分の出鱈目なジラール理解を『ドストエフスキー 父殺しの文学』で吹聴し続けて…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(3)

亀山のドストエフスキー論における根本的な矛盾 前回述べたように、ジラールは、ドストエフスキーによる模倣の欲望の発見によって初めて、フロイトのエディプス・コンプレックスの概念、そして、その概念から派生した『トーテムとタブー』の「父親殺し」のシ…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(2)

エディプス・コンプレックスなどない 亀山郁夫の文章の特徴は、つかみどころがないことだ。それは亀山が適当な思いつきに嘘をまぶしながら、連想ゲームのように次から次へと妄想を展開してゆくからだ。このため、読者が「変だな」と思っても、もう話題は別の…

『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(1) 

はじめに 亀山郁夫は『ドストエフスキー 父殺しの文学』(全二巻、日本放送出版協会、2004)の序文で次のようにいう。 本書は、ドストエフスキー文学における最大の謎とされる「父殺し」の主題を扱っている。しかし「父殺し」における「父」とは、作家の父ミ…

亀山郁夫とイソップ言語

「亀山郁夫の傲慢」で明らかにしたように、亀山は私のいう「自尊心の病」に憑かれている。また、「続・自尊心の病」で述べたように、自らの自尊心の病に気づくことができない者は『地下室の手記』以降のドストエフスキーの作品を理解することができない。 な…

亀山郁夫の傲慢

亀山郁夫の『磔のロシア──スターリンと芸術家たち』(岩波書店、2002)も妄想のかたまりと言うべき本だが、それは同時に不愉快きわまりない本でもある。なぜ不愉快なのかといえば、それは亀山がこのスターリンによる陰惨な悲劇をスラップスティック(ドタバ…

プロットの穴と尻の穴 

ドストエフスキーの読者には自明の事柄だが、ドストエフスキーの作品のプロット(諸事実の因果関係)には、無数の「穴」が開いている。「穴」とはもちろん比喩的な言い方で、諸事実の因果関係がしかとは確定できないような事態を、私は「穴」と呼ぶ。この穴…

映画の少女に恋をした? 

背後でカミさんの悲鳴が聞こえたので、何ごとかと振り向くと、あわてて新聞を隠した。が、観念して、それを私に差し出した。 またも朝日新聞(2010/5/20/夕刊)の詐欺師亀山への提灯記事(映画の少女に恋をした.jpg )。 朝日もずいぶんいいかげんな記事を書…

ドストエフスキー研究者 松尾隆の評伝

私が最近繰り返し読んでいる評伝について述べておこう。 ひとつは『パリに死す 評伝・椎名其二』(蜷川譲、藤原書店、1996)で、これは私が定年になると大学図書館に戻さなければならない本なので、最近未練がましく読み返している。買えばいいのだが、引っ…

追補・大岡昇平とドストエフスキー

福井勝也の「大岡昇平とドストエフスキー──『野火』を中心に」(『ドストエーフスキイ広場 No.19』)を読んでやりきれない気持になったことについては先のブログ(「大岡昇平とドストエフスキー」)で述べた。しかし、どうも言い足りないので、私の考えをもう…

大岡昇平とドストエフスキー

新しい『ドストエーフスキイ広場 No.19』が送られてきたので、見ると、巻頭に福井勝也の「大岡昇平とドストエフスキー──『野火』を中心に」という論文が載っている。巻頭に掲げられるということは同人諸氏から高く評価された論文ということだろうか。しかし…

ドストエフスキーの「創造」

ドストエフスキーの作品は、ドストエフスキーが書いたものではない。それはバッハの作品がバッハの書いたものではないのと同じだ。ドストエフスキーやバッハは神が創造したものを「保存」しただけだ。シモーヌ・ヴェイユは次のようにいう。 創造することの不…

「お勉強」

またもや長い枕になる。本題は亀山郁夫批判と日本ロシア文学会への批判だ。 私は大学三年のとき、神戸の『たうろす』という同人誌に入った。入っていなければ、私は死んでいただろう。その理由について述べることはできないが、いずれにせよ、『たうろす』と…

オブリビオン

外大のロシア語学科の学生で私と同じような経験をしている人は多いだろうが、学生の頃、私はソ連から出版された本(思想、経済、小説、詩のテキストや解説など)を読むのが苦痛だった。少し読むと、必ず、「マルクス曰く・・・」、「レーニン曰く・・・」と…