破滅に向かう日本人(承前)

 これまで私は江川卓ドストエフスキー論を批判し、亀山郁夫ドストエフスキー論とその『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を批判してきた。亀山がドストエフスキー関係の仕事をやめるまで、これからもその二人と彼らの仕事を擁護する者たちを批判し続けるつもりだ。なぜ私は彼らを批判するのか。その理由はふたつある。
 ひとつは、これまで繰り返し述べてきたことだが、ドストエフスキー研究者である私にとって、そのように無意味なドストエフスキー論や翻訳がはびこっては困るからだ。それはいっときのあだ花、ドストエフスキー研究やドストエフスキーの翻訳のあだ花であってほしい。それなのに、今や、そのようなドストエフスキー論や翻訳が日本では主流になりそうな勢いだ。だから私はそれをあだ花として葬り去るため、彼らを批判するのだ。
 彼らを批判するもうひとつの理由――これこそ本当の理由だが――それは私に江川や亀山が現在の日本を地獄に突き落とそうとしているように思われるからだ。大仰と言われるのを承知でいうと、規模は違うが、デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を流行らせることによって、西欧に人間中心主義(ヒューマニズム)の思想を広め、その後、厄災を西欧にもたらしたように、江川や亀山は「すべては許されている」という思想を広めることによって日本が破滅に向かうのを促しているように思われるのだ。いや、江川や亀山に責任はないのかもしれない。現在の日本にはすでに「すべてが許されている」という思想が蔓延しているので、江川や亀山はちゃっかりその流れに便乗し、その思想の旗振り役を務めているだけかもしれない。
 しかし、これも大仰と思われることを承知でいうと、江川や亀山のふるまいは、先の戦争で、もはや戦争が押しとどめがたいということを見てとるや、時流に乗り、戦意高揚の旗を降り続けたマスコミや知識人たちと同じではないのか。たまたま徹底的に破滅させられなかったからいいものの(いや、日本はそのとき徹底的に破滅したという人もいるが)、本当に破滅し、日本が米国やソ連の植民地になっていたとすれば、マスコミや知識人たちはどのように責任を取るつもりだったのか。
 江川や亀山のふるまいはそれと同じだ。現在のように日本に「すべてが許されている」という思想が蔓延し、日本が滅亡に向かっているとき、それに抵抗するのがマスコミや知識人の責任ではないのか。そうはせず、時流に便乗し、「すべてが許されている」という思想を広めている江川や亀山のふるまいを容認するとすれば、マスコミや知識人、なかでもロシア文学者たちは社会的責任を放棄していると非難されてもしかたがないのではないか。このため、私は江川や亀山を批判するのだ。ロシア文学者が彼らを批判しなければ、他の誰が彼らを正確に批判できるというのか。
 いや、あなたは大げさにすぎる。日本には「すべてが許されている」という思想など蔓延していない、なぜあなたはそんな風に大げさなことを言うのか、あなたは被害妄想に陥っているのではないのか、と、私にいう人がいるかもしれない。もしいるのなら、私は逆にその人に問おう。なぜあなたはそう思わないのか。なぜ現在の日本には「すべてが許されている」という思想が蔓延していないと言えるのか。
 なるほど、あなた自身、たまたま、厄災に遭う前のヨブのように、何の欠けることもない幸福な生活を送っている人なのかもしれない。しかし、自分の身辺に起きていることを知っておられるのか。あなたはテレビや新聞のニュース、さらにインターネットなどの掲示板などを見て、総毛立つことはないのか。ニュースを見れば、親が子供を殺し、子供が親を殺し、子供が親の年金をかすめ取り、警察官や刑事が犯罪をでっちあげ、教師が幼い生徒と淫行を行い、僧侶が税金をごまかし、またインターネットのホームページや掲示板を見れば、匿名という覆面を着けた人々が、「すべてが許されている」という言葉を文字通りの形で実行に移し、公然と差別を行い、根拠も示さず人を貶める暴言を吐いている。このような出来事が毎日、毎秒ごとに起きているのではないのか。私たちは毎日、うんざりするほど総毛立つような出来事に出会っているのではないのか。あなたは日本人の心がすでに壊れているとは思わないのか。
 いや、そうは思わない。そもそもニュースというのは珍しい現象だからニュースになるのであって、そのようなことがニュースになっているかぎり、日本の社会は安泰なのだ。インターネットの掲示板での無責任な発言など、便所の落書きや狂人のたわごとと同じだ、そんなものを気にする必要はない。あなたはそう答えるかもしれない。たしかに私もそう思いたい。しかし、そうは思えないことが私が直接知ることができる日常にもあふれているのだ。少し人とまじわるだけで、あなたにもこの世界が死産児に満ちていることが分かるだろう。分からないとすれば、あなたはそれを見ないようにしているだけなのだ。
 私が江川や亀山の「すべてが許されている」という思想を広める行為を押しとどめたいと思うのは、私の周囲にも死産児があふれているからだ。それに、かく言う私にしても、かつては死産児だった。自分がかつて死産児であった者は、相手が死産児か否かが即座に分かる。ほんの少しその人物の書いた文章を読むだけでも分かる。死産児であることがいかに苦しいことであるかを私は知っている。しかし、ドストエフスキーの作品を読むことによって、私は死産児である状態から抜け出すことができた(それは主たる原因で、ドストエフスキーの作品だけが理由ではないが)。だから、ドストエフスキーの作品を読めば、私以外の人々も死産児である状態から抜け出すことができるかもしれないのだ。このため、そのようなドストエフスキーの作品の解説や翻訳を死産児に迎合するような形で世間に売りつけ、ドストエフスキーの作品を無意味なものにしている江川や亀山の仕事を私は批判し続けるのだ。
 しかし、なぜ日本にこれほど急激に「すべてが許されている」という死産児の思想が広まってしまったのか。それはもちろんこれまで述べてきたように、日本には、西欧などにはある、「すべてが許されている」という思想を批判する神が存在しないからだ。存在するのは、さまざまな共同体によって暗黙の裡に保全され伝えられてきたルール、「・・・だけはしてはいけない」というルールだけだ。このルールは共同体が解体すれば失われる。そして死産児が出現する。
 あるいは知らない人がいるかもしれないので、ここで誰もが知っているような説明をはさむ。以前は、このルールを破る者は村八分となり、その共同体から追い出された。明治以来、そのルールに従わなかった者は、たとえば、文学者の場合、文学が好きなあまり村八分になった者たち、あるいは自ら望んで村八分になった者たちが身を寄せ合い「文壇」と呼ばれる共同体をつくった。しかし、それはまた日本的共同体であったので、その文壇のルールを破った者は、さらに村八分になった。そうなればもうどこにも行くところはなく、のたれ死にするか、犯罪者の群れに身を投じるしかなかった。今ではそのような最後のセーフティ・ネットともいうべき文壇さえない。あるのは商売が目的の出版社がお膳立てした擬似的な文壇だけだ。そこでは売れなくなった作家は性病にかかった売春婦のように捨てられる。これは文壇だけではない。今では文壇以外の共同体も同じだろう。企業はもちろん、大学や研究機関、地域共同体、拡大家族(親戚など)、家族といった共同体から金を産み出さないメンバーは排除されるのだ。金の切れ目が縁の切れ目ということだ。
 このように、従来の日本的共同体が崩壊の過程にあるため、現在の日本に「すべてが許されている」という死産児の思想が蔓延してしまったのだ。財産のない親を保険金目当てに子供が殺し、村の財政を立て直すために高速道路を先祖代々の墓の上に走らせ、活断層があるのを知っていながら原発をその上に建てる。死産児のふるまいを挙げるとすればきりがない。
 ところで、さまざまな共同体によって暗黙の裡に保全され伝えられてきたルール、「・・・だけはしてはいけない」というルールを壊したのは誰なのか。それは進駐軍のつくった日本憲法だ、という人がいる。だから、憲法を日本人の手によって改正しなければならない、と。
 たしかにその日本国憲法は神と契約を交わした米国の常識を神と契約を交わしていない日本に適用してできあがったものだ。日本の風土にそぐわないのは当然だ。しかし、その憲法はそれまで暴れ回っていた狂人をおとなしくさせるための拘束着のようなものにすぎない。米国との戦争に敗れた日本人は、比喩的にいえば、精神病院に閉じ込められ、拘束着を着せられたのだ。その拘束着を外しても日本人は暴れないか、日本人以外の人々が日本人を観察するという風景が、もう66年続いている。それは日本人も同じで、その拘束着がないと自分は暴れ出すかもしれないと思う者(護憲派)と、いや大丈夫、もう狂ったりしない、他の国と同じように軍隊をもち、核ももちましょうという者(改憲派)とに分かれる。自分のことぐらい自分で判断すればいいのだが、神と契約を交わしていない日本人にとって、拘束着を外すと何をしでかすか自分でも確信がもてない。それに今では共同体が解体し、「すべてが許されている」という思想が日本中に蔓延している。いま拘束着を外したら、何をしでかすか分からない。その危険は以前より増しているように思われる。いやいや大丈夫ですよ、一回外してみないと分かりませんよ、という風に、憲法改正論議はおそらく私が死んだあとも決着はつかない。決着がつくとすれば、それは日本人が根っこから完全にアメリカナイズされ日本人ではなくなったときだ。しかし、そんな時は来ない。
 さて、米国人がつくった日本国憲法は拘束着にすぎないが、それが同時に、戦後の日本人の精神を変化させたことも確かだろう。ここでいう変化とは、日本人の精神に米国風の合理主義と操作主義を移植したということだ。また、その憲法は米国風のライフ・スタイルも日本に流行らせ、たとえば村上春樹という日本人でありながら米国の作家ともいうべき小説家も産み出した。しかし、そのような変化は表層的なものにとどまり、村上春樹の作品にしても、そこに米国人が日本国憲法の底にひそませた神との契約が根付いているわけではない。根付かないのが当然で、米国の文化を日本に移植しようとしても、それは不可能だ。移植できないから文化なのである。(続く)