日本における死産児(承前) 

 これまでの説明で死産児とは何かについておおよその理解は得られたことと思う。しかし、その不十分な説明だけでは、これから議論を進めてゆくとき、読者にさまざまな疑問が生じてくるだろう。そこで、日本における死産児について、あと少し説明しておこう。
 死産児とは何かについて、私は論文「ドストエフスキーとヴェイユ.pdf 直」(この論文を読みたい方はこのpdfファイル名をクリックして下さい)の中の「『地下室の手記』と砕かれた心」で述べた。この論文程度のことを知っておいて頂ければ、死産児そのものに関しては、読者と私のあいだに誤解は生じないはずだ。
 死産児の定義をひとことで言うとすれば、すでに述べたように、前出山本七平が述べているような「いくら何でもそこまではしないだろう」ということをしてしまう人間、言い換えると、「すべてが許されている」という思想をもつ人間のことである。しかし、これは抽象的な定義にすぎないのであって、実際どのような人間を指すのかということになれば、人間の指紋がそれぞれ異なるように、死産児ひとりひとりも異なっている。そのような実在の人物を挙げるとすれば、たとえば、ヒットラースターリンというような大物から「データ捏造で偽造」で挙げた松原弘明や亀山郁夫、他人の論文を剽窃する学者、公金をねこばばする官吏、女子高生のスカートの中を盗撮する人々、匿名でインターネットの掲示板に差別発言を書き込む人々、ご近所の噂話に熱中する人々などが挙げられるだろう。
 また小説から死産児の例を思いつくまま挙げるとすれば、たとえば、太宰治の『ヴィヨンの妻』の夫、スヴィドリガイロフ(『罪と罰』)、ヴェルシーロフ(『未成年』)、スタヴローギン(『悪霊』)、『地下室の手記』の主人公、ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、漱石の『こころ』の「先生」、『罪と罰』のソーニャを陥れようとして赤恥をかいたルージン、漱石の『こころ』の「先生」から財産をかすめ取った叔父などが挙げられる。
 このような死産児たちの特徴は、繰り返すが、「いくら何でもそこまではしないだろう」という一線を軽々と越えてしまうということだ。なぜ越えるのか。それは自分の欲望が抑えきれないからだ。なぜ抑えきれないのか。それはこれまでの亀山批判で繰り返し述べてきたように、その欲望が「模倣の欲望」であるからだ。死産児であるかぎり、模倣の欲望を抑えることはできない。なぜか。
 それはその模倣の欲望を抑えるもの(これだけはしてはいけないという歯止めになるもの)が死産児にはないからだ。たとえば、『こころ』の「先生」は親友のKから下宿のお嬢さんへの恋心を打ち明けられたとたん、負けるもんか、先を越されてなるものか、と、すぐさま、お嬢さんに結婚を申し込む。親友ならKの打ち明け話を聞き、「そうか、わたしもお嬢さんが好きだ。困った。」と口に出して言うか否かはべつにして、狼狽し煩悶するだろう。それをしないで、「先生」はこれだけはしてはいけないこと――Kを裏切ってお嬢さんに結婚を申し込むという行為――をしてしまう。そしてKは「先生」にも自分にも、そして自分の将来にも絶望して自殺してしまう。このとき初めて「先生」には、自分の愚かさが分かり、自分に絶望するのだ。それと同時に、自分には自分の不正な行為を押しとどめるものが何もなかったことを知る。このため、「先生」は自殺する。不正な行為を押しとどめるものが何もない自分など認められないからだ。
 これはスタヴローギンも同じだ。マトリョーシャに対する罪の意識が忘れられないのでスタヴローギンは自殺する。「先生」と同様、スタヴローギンも、自分の不正な行為を押しとどめるものが何もない自分を許すことができないため自殺するのだ。
 従って、「先生」もスタヴローギンも正確に言えば、死産児ではない。なぜなら、その彼らが自らを罰し、自殺したということそれ自体が、「すべてが許されている」わけではない、という彼らの心を明らかにしているからだ。彼らは死の瞬間、回心したのだ。パスカル風に言えば、死の瞬間、彼らの心は砕け、回心したのである。その死の先に生はなかったのだが、生きていようが死のうが、それが回心であったことに違いはない。彼らの自殺行為が不可抗力のために失敗(自殺しようとしたとき、大地震が起きたとか、縊死のためのロープが切れたとか)に終わったとすれば、彼らはマルケルやゾシマのように回心した人間として新しく生きることができたかもしれない。
 ところで、死産児である「先生」とスタヴローギンが無視しているモラルの内実は異なる。これまで述べてきたように、「先生」が無視しているモラルは自分の属している日本の中間集団によって強制されたものであり、スタヴローギンが無視しているモラルはキリスト教によって強制されたものであった。
 このような死産児が成立するためには、死産児が無視するモラルを造り出す主体がなければならない。もしその主体――日本においては中間集団、キリスト教圏においてはキリスト教信仰――が崩壊しているとすれば、死産児は死産児でさえなくなる。今もキリスト教圏においてキリスト教信仰が保存されているのは明らかだろう。それはそれに対抗する無神論的思想が大きな勢力を占めていることからも分かる。だから、死産児は存在する。
 しかし、日本の中間集団はどうか。それはたんなる機能的な集団に変質し、その内部の成員の有機的なつながりはほとんど失われているのではないのか。従って、日本人の大多数は死産児へと転落しているのではないのか。日本人の大多数が死産児ということになれば、それはもはや死産児ではなく、日本人と呼ぶべきである。なぜなら死産児にとって死産児など存在しないからだ。
 家族を例に取れば、日本の家族のほとんどはドストエフスキーのいう「偶然の家族」(今の言葉では「ホテル家族」あるいは「ターミナル家族」)へと変質しており、家族としての機能(家族の成員が同じ場所に住んでいたり、扶養したり、扶養されたりしているなど)だけをもち、その成員同士の心のつながりは希薄なものになっているのではないのか。これは家族より上位の中間集団(親戚などの拡大家族、職能集団、地域集団など)において、さらに事態は深刻であると言えるだろう。いや、深刻ではない。そんなもの希薄な方がいいんだよ、と、今や死産児とさえ呼ぶことができない日本の死産児たちは言うだろうが。(続く)