「お勉強」

 またもや長い枕になる。本題は亀山郁夫批判と日本ロシア文学会への批判だ。
 私は大学三年のとき、神戸の『たうろす』という同人誌に入った。入っていなければ、私は死んでいただろう。その理由について述べることはできないが、いずれにせよ、『たうろす』という同人誌は私にとって恩義のある雑誌だ。その頃、大阪の『銀河詩手帖』という同人誌でリルケばりの詩を書いていた友人の石井君は、皇居前で油をかぶって焼身自殺してしまった。石井君は中岡哲郎に心酔していたので、中岡哲郎は自分の責任みたいに思って長い間苦しんでいた。石井君が死ぬ一ヶ月ぐらい前だったろうか、私は彼と喫茶店で会ってコーヒーを飲んだ。「マルテの手記」の話をしたはずだ。このため、私も彼の死に責任があるように感じている。
 私を『たうろす』に誘ったのは、中岡哲郎の友人だった小川正巳だ。私が小川正巳の「文学概論」という一般教養の授業に一回も出席せず、レポート代わりに、梶井基次郎風の(「ある崖上の感情」みたいな)小説を書いて提出したところ、小川から呼び出しがあり、『たうろす』に入れ、と言う。小川は私の文章に感心したわけではないだろう。私の文章に死の影を感じ、これは何とかしなければ危ないと思っただけだろう。
 入って分かったことだが、『たうろす』の前の名前は『くろおぺす』だった。『くろおぺす』は富士正晴が主宰していた『VIKING』から分かれた雑誌だった。なぜ分かれたのか。諸説があってよく分からないが、富士のわがままに耐えかねた小島輝正などが集団で脱退したとか、久坂葉子が自殺したあと同人誌の空気が変わったためとか、神戸外大の教師だった島尾敏雄がある女性編集者と深い仲になり、東京に引っ越してしまったためとか、いずれにせよ、よく分からない。
 『くろおぺす』を『たうろす』と名前を変えたのは、「好色と花」などを書いていた越知保夫が亡くなり、空気を一新するためだった、ということだ。
 当時、池内紀が編集係だったので、私はその手伝いをしながら同人費を学割にしてもらい、下手な小説を書いていた。小説を書くのに忙しく、死ぬことを考えることはなくなった。小川正巳の策略にまんまとはまったというわけだ。小説ではなく詩でもよかったのだが、小説を書いたのは、小川正巳が「あんたはオダサクみたいになれ」と言ったからだ。オダサク、つまり織田作之助というのは小川正巳の三高時代の親友だ。小川正巳はオダサクが三高を退学になったあと、オダサクが東大の偽学生になるのを手伝った。オダサクが偽学生になったのは、弟であるオダサクの身の上を案じながら、温泉で仲居をしながら仕送りをしてくれていた姉さんを心配させないためだった。
 私はよく小川正巳から「あんたはオダサクによう似とるな」と言われた。どうしてオダサクなのか、よく分からなかったが、やけくそな感じがオダサクと似ていたのか。たぶん、そうだろう。その後、だいぶたって、「この前、「股旅」ちゅう映画を見たけど、あんた萩原健一に似とるな」と言われたので、そういうことだろう。
 それはともかく、『たうろす』に入って驚いたのは、書いたものをボロクソに言われることだった。いちばん口の悪いのが小島輝正で、「死ね」と言うのと同じようなことを言った。『VIKING』で久坂葉子を自殺に追いやったのは小島ではないのか、という噂は本当ではないのか、と確信してしまうほど、口が悪かった。私も「死ね」と繰り返し言われた。「まあ、こういうもの書いているようじゃ、ダメだね。・・・馬鹿、死ね」と、絶妙の間をとって罵倒するのである。おかげで、「死ぬもんか」と思うことができたのだが。
 小島の次に口の悪いのが多田智満子で、つまらぬ詩を書くと、見下げ果てた下郎だ、というような顔をして、「だめね」と言って、もうそれきりだった。そう言われた詩人たちは多田智満子のわら人形を作って、毎夜、五寸釘を打ち込んでいたのに違いない(冗談だが)。
 しかし、罵倒されているのはまだましで、何かの間違いで大学の先生などが紀要論文風の、いかにも「勉強しました」というような論文を持ち込んでくることがあると、これはもう洟も引っかけられなかった。お前の人生とこの論文はどう関係があるのかということだ。小島は自分が教えていたフランス語を「おフランス語」と言って恥じていたが、それにならって言えば、『たうろす』では自分の人生とは何の関係もない、「お勉強」だけで書かれた文学論は無視されたということだ。当たり前のことだが、文学論は「いかに生きるべきか」ということを抜きに論じることはできない。たとえば、バフチンドストエフスキー論が面白いのは、学術論文でありながら、「いかに生きるべきか」ということが正面から論じられているからだ。
 さて、ここからが本題だ。私は『現代思想・総特集=ドストエフスキー』(2010 vol.38-4、青土社亀山郁夫+望月哲男・責任編集)を読んでいて、翻訳は別にして、また全員についてではないが、なぜこの人はドストエフスキーを論じるのだろうと疑問に思うことが多かった。あなたの人生とドストエフスキーはどのような関係があるのか。ただの「お勉強」にすぎないのか。それとも「お勉強」以前の、お飾り、あるいは、メシの種にすぎないのか。
 そういう風に思った論者の中で、特に私に分からなかったのが亀山郁夫だ。彼はなぜドストエフスキーを論じなければならないのか。たとえば、すでに述べたように、彼はみすず書房から出した『悪霊』論(『『悪霊』 神になりたかった男』、p.144)で、マトリョーシャについて、もうそれだけでドストエフスキーを論じる資格を失うようなことを述べている。これは誰が読んでもそう思うだろう。詳しくは、「みすず書房へのメール」で引用した私の論文「ドストエフスキーの壺の壺」(pp.156-158)を見てほしい。
 このことについて言う人が少ないのは、『悪霊』という作品を読んでいる人が少ないからにすぎない。『悪霊』が『罪と罰』のような読み易い作品であり、多くの人が読んでいるとすれば、亀山はロシア文学者としては認知されず、トンデモ本の作者という烙印を押され、読書界から葬り去られていたはずだ。
 『悪霊』を読む人が少ないことにつけこみ、亀山は今度も『現代思想・総特集=ドストエフスキー』で『悪霊』について論じている。しかし、彼はそこで『『悪霊』 神になりたかった男』で「発見した」自分の「誇るべき仮説」については、ひと言もふれていない。そんなに誇るべき仮説なら、ここでも吹聴すればよかったのに、そうはしていない。亀山のとんでもないドストエフスキー論は『悪霊』論に限らない。『現代思想・総特集=ドストエフスキー』責任編集者の望月哲男・日本ロシア文学会副会長も、亀山と対談している沼野充義・日本ロシア文学会会長も、亀山のそのような態度をいっさい批判していない。批判しないということは、容認しているということに他ならない。それとも、二人はどこかで亀山の『悪霊』論をちゃんと批判しているのだろうか。批判しているのなら教えてほしい。
 私の知るかぎり、木下豊房や高橋誠一郎以外、日本ロシア文学会会員からはまったく亀山に対する批判の声が聞こえてこない。ロシア文学研究は「お勉強」に過ぎないので、亀山がドストエフスキーに対して倫理から外れたことをしようが、何をしようが、そんなこと、私には関係ありません、と言いたいのか。ここで、もう一度、中野重治の文章を引用しよう。

 関東大震災朝鮮人との関係でいえば、ここで私は今東光を引くこともできる。『小説新潮』、1972年9月号、「青葉木菟の欺き」で今は佐左木俊郎のことに触れている。佐左木俊郎を直接知つている人も少なくないにちがいない。今はこう書いている。
「……幸いにして彼はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
 『日本人という奴は、まつたく自分白身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が白警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
 『其奴等は今どうしてる』
 『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」
 一つの事実とともに、佐左木の「近所の女房どもさえ」、確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあつたことが語られている。それは直ちに、佐左木俊郎がまたその状態にあつたということではない。佐左木自身ならば、朝鮮人とまちがわれて日本人が刃物の拷問を受ける不当を不当としただけでなく、朝鮮人朝鮮人だからといつて、それだけで日本人から殺されさいなまれることの不当を不当としたにちがいない。ただ一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた事実はここで語られている。そしてこのことを、 1972年、3年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。日本共産党五十年史は、この点、そこをマイナス方向で代表しているものの一つとして見られるというものであるだろう。その責めは、終局的には日本人民に来る。日本文学にも来る。

 多くの日本ロシア文学会会員の振る舞いは、ここで佐左木俊郎が述べているような日本人のものと同じだ。事実に目をつむり、うまく立ち回りたいだけだ。

 『日本人という奴は、まつたく自分白身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が白警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
 『其奴等は今どうしてる』
 『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」

 日本ロシア文学会の諸氏は、亀山問題に「口を出したら、自分等も萩原みたいに思われるから怖かった」とでも言いたいのか。
 中野にならって言えば、日本ロシア文学会会員が亀山問題に目をつむっていれば、「その責めは、終局的には日本人民に来る。日本ロシア文学会にも来る。」ということになるだろう。
 ところで、昨日送付されてきた「日本ロシア文学会会報 第39号」(2010年3月)によれば、沼野充義が総会で会長所信表明を行い、次の三点を目指して行きたいと述べたということだ。

 1)「開かれた学会」(①国際的②対社会的に③組織的に)
 2)「さわやかな学会」(役員レベルの若返りと女性の増加)
 3)「中味のある学会」(若手の業績作りの場としてのみでなく学問的刺激を提供する場として)

 ということになれば、論理的に、今後、日本ロシア文学会は、会をあげて、亀山問題を徹底的に論じるということになる。なぜなら、亀山問題を隠蔽しているかぎり、「開かれた学会」にも「さわやかな学会」にも「中味のある学会」にもならないからだ。沼野会長の今後に期待したい。