亀山郁夫批判

南京映画祭

昨日、南京映画祭(エル・大阪)に行く。日曜日にも拘わらず大学で会議があったので、映画「南京─引き裂かれた記憶」の最初の30分を見ることができなかった。そのあと、「南京─引き裂かれた記憶」の取材・企画・制作の松岡環と武田倫和と、映画「靖国 YASU…

撫順の奇蹟

朝日の昨日の夕刊(撫順の奇蹟.pdf )を見て、カミさんと大阪市港区の弁天町市民学習センターに行く。「撫順の奇蹟は「今」ここに」(13:30-16:30)。ほとんどが「前期高齢者」と「後期高齢者」で、若い人はちらほらいるだけだった。参加者は50ー60名ぐ…

「怪物」亀山郁夫

「怪物」亀山郁夫 いつからだろうか、背後に「神」を感じることができないような文章に耐えられなくなったのは。小説はもちろん、論文でもそうだ。雑文でも同じだ。私はそのような文章に耐えられない。たとえば、日本語で書く作家で私が繰り返し読むことがで…

子供だまし

いやー、驚きましたがな。朝飯を食べてたら婆さんがね、思いつめた顔して、 「わて、あんたに隠してたことあるねん」 「ぷほー、な、なんや」 「わ、ばばちいな、ご飯つぶ、まき散らかさんといて」 「何や、はよ言え」 「あのな、これは前々からのことやけど…

ドストエフスキーを読んではいけない人

ドストエフスキーの愛読者は世の中のはぐれ者である。また、そうでなければドストエフスキーの愛読者にはなれない。 これは私が「誰がドストエフスキーを読むのか」(1994)という長大な論文で述べたことだ。あまりに長大すぎたので、その内容を圧縮し、「ド…

亀山郁夫の暴力

私が十年ほど前から何とかのひとつ覚えみたいに唱え続けている「物語の暴力」というのは、ある現実を観察し作り上げた物語(あるいは理論)を、ふたたびその現実に適用するとき発生する暴力のことだ。 簡単に言うと、「物語の暴力」とは、実態をあまり知らな…

亀山郁夫の鈍感力

どうやらこの世界には二種類の人間がいるらしい。プラトンが「国家」や「パイドロス」で執拗に述べていたのはこのことだったのだ。若い頃は、その執拗さに閉口したものだ。「分かっているよ、プラトンさん」と呆れていたのだが、まったく分かっていなかった…

みずず書房からの返信

亀山郁夫の『悪霊』論を出版したことに対して抗議のメールを送ると、みすず書房からすぐさま丁重な、しかし儀礼的なメールが来た。みすず書房に了解をとっていないので、そのメールを引用するわけにはゆかない。従って、大意を紹介するだけにすれば、社内で…

みすず書房へのメール

次に私が2008年2月初めにみすず書房に送ったメールを一部省略して載せる。今読めば、ここで私が自分をキリスト教徒ではないと述べているのは不正確。私はシモーヌ・ヴェイユがキリスト教徒にならなかったのと同じ意味でキリスト教徒ではないということだ。な…

亀山郁夫の悪意

私が初めて亀山郁夫のドストエフスキー論(『『悪霊』神になりたかった男』)を読むきっかけになったのは、ある学生のレポートだった。もちろん、すでに亀山が『ドストエフスキー父殺しの文学』を出しているのは知っていた。しかし、私はそれを本屋で立ち読…

亀山郁夫の狂気

謙遜という言葉が死語になったということで思い浮かべるのは亀山郁夫の一連の発言だ。 木下和郎の言っていることは正しい。次を参照。 http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20091016 長文だけれど次に掲載されているPDFファイルも参照。144頁目から…