カナリアとしてのドストエフスキー論

 これまで亀山郁夫ドストエフスキーの翻訳やドストエフスキー論を読んできて痛感したのは、「いくらなんでもここまではしないだろう」という一線を亀山が平気で踏みこえてしまっているということだ。たとえば、亀山による『悪霊』のマトリョーシャ解釈や『カラマーゾフの兄弟』の翻訳での原作歪曲などは、正気の沙汰ではない。ロシア人研究者相手に同じことを主張できるものならしてみるがいい。即、精神病院に放り込まれるだろう。
 しかし、これもすでに詳しく批判したことだが、このような「踏みこえ(ロシア語でпреступление、つまり「犯罪」、あるいは『罪と罰』の「罪」)」はすでに江川卓ドストエフスキー論にも見られたことだ。たとえば、江川が読売文学賞を受けた『謎とき『罪と罰』』での「ラスコーリニコフ=666」説や名前解釈によるドストエフスキー論など。
 江川に読売文学賞を与えた選考委員たちの罪は重い。彼らもまた越えてはならない一線を踏みこえたのだ。いささか誇張していえば、彼らは江川にその賞を与えた瞬間、わが国のドストエフスキー研究を狂気の世界に押しやったのだ。
 江川は『謎とき『罪と罰』』を書いたあと、ロシアに行き、ロシア人研究者の集まりで「ラスコーリニコフ=666」説を喋ったところ冷笑を買っただけだった。これはそのとき江川とともにロシアに行った工藤精一郎から私が直接聞いた話だ。工藤は「いくら江川に俺や原(卓也)クンが666はやめておけと言っても、言うことを聞かないんだよな」と福島弁で嘆いた。工藤は本気になると福島弁になった。私は工藤や原の正気に深く安堵した。どうでもいいことだが、工藤が原卓也のことを「原クン」という風に呼んだのは、戦後、原家で居候をしていた頃、息子である卓也の出来の悪いのを案じた原久一郎に頼まれ、卓也にロシア語を教えたからだ。
 ところで、日本以外では見られない江川や亀山による珍妙かつ奇怪なドストエフスキー論、つまり「踏みこえ」はなぜ可能になったのか。また、江川に賞を与えた選考委員たちも含む日本の一部の読者たちはなぜそのようなドストエフスキー論を歓迎するのか。
 その答ははっきりしている。そんなことになったのは、いきなり変なことを言うようだが、日本には個人主義がないからだ。ここで私がいう個人主義とは利己主義とは違う。というより、日本には個人主義はなく利己主義しかない。利己主義者と個人主義者の違いを一言でいうと、利己主義者は無責任であり、彼らは「すべてが許されている」と思っている。一方、個人主義者は無責任ではなく、すべてが許されているとは思っていない。このため、個人主義者は江川や亀山のドストエフスキー論を許容できない。私の敬愛する山本七平の言葉から引用しよう。山本は岸田秀との対談で次のようにいう。

岸田 戦争中、「個人主義はいけない」としきりに言いましたが、神を持たない日本人に個人主義がどう映るかというと、利己主義に映る。実際、神という歯止めがないんだから、近代的自我はそのままエゴイズムになってしまうんですね。とにかく自分ひとりのため、ほかの人がどんなに傷つこうが損しようが、自分の快楽や利益さえ確保できればいいという主義になってしまう。個人主義を日本人が嫌うというのは、そこです。必然的にエゴイズムに移行する個人主義を無制限に認めていたら、秩序が成り立たない。集団にとって危険なんですね。
山本 個人主義は、ある意味でヨーロッパの理想型みたいなんだけれども、これは「何々をしない」ということが一つの誇りになっているんです。団体規約でもなんでもなくて、自分対神の約束で、これはしない、あれはしないという原則がはっきりしている。そして、これがはっきりしていればいるほど、社会が尊敬し、信用してくれるわけです。前にアメリ国務省日本課長のシェアマンと話したとき、アメリカ人の理想型とはこの意味の個人主義だと言ってましたな。
 だいたい、人間の信頼関係というのは、マイナス的なものでして、「彼はこれだけは絶対しない」というところから始まるわけです。汝、殺すなかれ、盗むなかれと同じで、あの人はここへ来ても私を殺さない、私から物を盗まない、私に対して偽証しない、というそこから始まるわけでしょう。だから個人が神との契約の形でそういう規範をきちんと持っていることによって、信頼関係が成り立つわけで、これが彼らのいう個人主義インディヴィデュアリズム)の理想型なんですね。
岸田 そして日本人にはその形がない。
山本 でね、私は人々がなぜ自民党を支持するのだろうかと考えたんです。すると、やっぱり信頼関係というのは、日本人の場合も、最終的に何かをしないということなんですね。あいつは飲む・打つ・買うのとんでもない奴だけど、こういうことはしないという信頼の仕方がありますね。(笑)自民党への支持というのはこれなんだな。とんでもないやつだけど何かをしないと信じてる。つまり、自分たちが自覚していない伝統的な文化規範に触れるようなことはしない、という信頼があるんですよ。自民党は伝統的な政治文化の上に乗っかってるだけでしょう。ところが野党はそうじゃないですね。(以下略)(『日本人と「日本病」について』、岸田秀山本七平、文春文庫、1996、pp.71-72)

 要するに、キリスト教圏における人間の信頼関係は「彼はこれだけは絶対しない」というところから始まる。これは神と人間が一対一で向かい合う世界に彼らが住んでいるからだ。一方、日本人はそのような世界に住んでいない。このため、ともすれば、江川や亀山のような「何でもあり」の無責任な人間が現れる。サド侯爵のように自分を拘束する神に反逆するために「何でもあり」の世界に固執するのではなく、江川や亀山はただただ自分の自尊心を満たすためにその世界に生きるのだ。
 しかし、山本によれば、そのような日本人にも、あいつは「こういうことだけはしない」という信頼関係が存在する。たしかにその通りだ。人と人とが有機的につながった共同体が続いているとすれば、そうだ。しかし、今もそうなのだろうか。今は江川や亀山のような、底が抜けたような倫理観しかもたない人間が多数を占めると同時に、その成員が孤立している、形だけの集団しか存在しないのではないのか。このため、江川や亀山の底が抜けたようなドストエフスキー論が歓迎されるのではないのか。言い換えると、現代日本における真正のドストエフスキー論とはカナリアのごときものではないのか。毒物がまじった空気の中に投げ込まれると、カナリアはまっさきに死ぬのだ。生き残るのは江川や亀山によるドストエフスキー論だけだ。ドストエフスキー論を装った偽物だけが残る。(続く