「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」のリンクを張って欲しいというリクエストがありましたので、リンクを張りました。しかし、スマホでこのリンク先を見ようとしても、なぜか、見ることができません。ご覧になりたい方は、パソコンでご覧下さい。(と、書きましたが、パソコンでも読めませんでした。ごめんなさい。しかし、本日、設定を変えたのでパソコンでもスマホでも読めるようになりました。2023年10月4日)

 なお、余談になりますが、この論文を書いたころ、わたしは、ようやく、(ベルクソンが批判していた)カント哲学の無意味さを言わない哲学、デュルケームなどの社会学あるいは社会科学全般、さらにフロイトなどの精神分析学も含む心理学全般、つまり、現在の大学で教えられている文科系の大半の学問の持つ傲慢さ、つまり、わたしのいう「自尊心の病」に気づきました。
 そう気づいたのは、そのような学問に携わる人々は、始めに掲げた論文「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いた、リーザに批判されているアリョーシャのように、人間を「上から」見て、決して、その人の、(ベルクソンのいう)「持続」を見ない、と言うか、見ることができないような学問に従事しているからです。
 そのことは、わたしの周囲の社会学者などを見れば明らかでした。傲慢と言われるのを承知で言えば、彼らは一人残らず傲慢だった。なぜなら、彼らは決してひとりひとりの人間の「持続」を見ない、あるいは見ることができないからです。そして、人間を束(たば)ねて、その集団に理論的な暴力をふるっているのに、自分ではそのことに気づけないからです。そして、自分では立派なことをやっていると誇っているからです。
 彼らは、そのような学問は人間にとって何の役にも立たない、それどころか、害悪しかもたらさない、ということに気づけない。あるいは、気づくと飯の食い上げになるから、気づかないフリをしている。
 だから、結局、そのような社会科学よりは、ともすれば、大学などで何の役にも立たない、下らない馬鹿のやる学問だと批判されることの多い(これはわたしの印象ですが)文学のほうが優れているのです。

 つまり、文学社会学などのように人間を束ねて見ず、人はいかに生きるかを考えさせるだけの、基本的に人間に害悪をもたらさない学問なのです。わたしも含めて下らない文学者が多いことも確かですので、文学が立派な学問だ、とまで言うつもりはない。しかし、少なくとも、文学は人間に害しかもたらさない社会学などよりは、はるかに価値のある学問だとわたしは思っています。