暴論あるいは正論?

 前回、年を取ってくると、抽象的な理屈が空しくなると述べた。しかし、それは若いころから分かっていたはずのことで、それはどういうことなのか、じっくり考えるべき事柄のひとつであったはずだ。
 でも、若いころは知識が不足しているので、知識を増やすために、その抽象的な理屈から成立している学問、つまり、哲学、社会学政治学などの文献を読んで、おれの知らないことばかりだなー、などと呆れるだけだった。しかし、よくよく考えると、いやよくよく考えなくとも、それは屁理屈の集積にすぎず、絵空事と言えば絵空事なのである。そういう絵空事を他人に吹聴して、どうだ、おれは物知りだろう、まいったか、などという風な論文を書いたところで、それは絵空事を集めて組み立て直しただけで、絵空事であることに変わりはない。
 こういう屁理屈を並べる人は、この世界が混沌としていることに耐えられない人なのだろうと思う。理屈を並べてカプセルを作り、そのカプセルの中にすっぽりと入る。そして、子宮の中に入っていたときのような状態を再現する。ああ、これで一安心、と思いたいのだ。
 要するに、哲学者、社会学者、政治学者などは、根っからのマザコンで、子宮回帰願望がとても強い人々なのだ。それは男性の独壇場だ。だから、子宮のある女性には、そういう抽象的な学問は向いていない。

                    • -

2015/01/25、本文にリンクを張りました。
それと、いま忙しいので詳しく説明できませんが、本文中の「マザコン」とか「子宮回帰願望」というのは、もちろん比喩的な表現で、本気にそういう男性や願望が存在していると私が思っているわけではないです。また、これも言うまでもないことかもしれませんが、ここで私がイヤミを言っている屁理屈好きの男性の中にはもちろん私も入っています。