小林秀雄の社会学批判

 先日、寝転がって、以前読んだことある小林秀雄江藤淳の対談(『歴史について』、文春文庫、1978、pp.9-75)を読み始めたら、わたしが先のブログ、つまり、「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いたことと同じことを小林が述べているので、少し驚いた。以前それを読んだときはわたしに小林の社会学批判の意味が分かっていなかったということが分かった。しかし、小林にベルクソンが分かっていたのなら、彼はドストエフスキーが理解できたはずだ。それができなかったのは、彼がバフチンに出会っていなかったからだ。彼がバフチンに出会っていれば、そして彼にわたしの言う「自尊心の病」が分かっていれば、彼もドストエフスキーが分かり、わたしと同じようなドストエフスキー論を書いただろう。しかし、彼はバフチンに出会わず、自尊心の病も分からなかった。これは傲慢な気持で言うのではなく、論理的にそう言えるのである。