ロシアのゴーゴリという作家に『鼻』という作品がある。うっかり客の鼻をそり落としてしまった床屋が、その鼻を捨てようとペテルブルグの町をウロウロする。最近読み返していないので、うろ覚えだが、鼻をチリ紙みたいなものに包んでそっと道に投げ捨てる。すると、うしろから親切な人が追いかけてきて、「もしもし、落とし物ですよ」と声をかけてくれる。橋の欄干から投げ捨てようとすると、警官に見つかり「ものを捨てるな」と叱られる。だいたいそういう内容だったように思う。それと同じような目に自分が会うとは思っていなかった。
 と言っても、『鼻』のような荒唐無稽な話ではなく、親父の足を捨てようとして大晦日の晩ウロウロした、というだけの話だ。と言うと、やっぱり荒唐無稽ではないか、と言われそうだが、本当のことだ。
 事のいきさつを順序立てて言うと、だいたいこんな風だ。肺ガンで入院していた親父の足が壊疽を起こし、それを直ちに切り落とさなくては命があぶないということになった。そう分かったのが大晦日の前日で、切り落としたのが大晦日。そして、その大晦日に私が足を捨てに行かなければならなくなった。それだけの話だ。いやいや、足を捨てるなど、あり得ない。そう言われるかもしれないが、それが本当にあった話なのである。
 しかし、今から二十年以上も前のことだ。いつか書こうと思っているうちに、身辺にごたごたが続き、私の記憶の大半がそのごたごたとともに失われてしまったようだ。ある高名な批評家が、大事なことはできるだけ遅く書いた方がいい、と言っていたのにとても感心していたので書かないままできたのだが、忘れてしまっては遅く書くこともできない。それなら書かなければいいい、と言われそうだが、そういうわけにもゆかない。これだけは書いておかないと親父が浮かばれない。というわけで、私がこれから書くものはおぼろげな記憶をもとにしてでっちあげた作り話にすぎない。
 今となっては、腐ったのが右足だったのか、左足だったのか覚えていない。しかし、足を根元から切られるとき、麻酔をかけていたのにも拘わらず、親父が白目を剥いて歯を食いしばっていたのはどういうことか。しかし、これもよくよく考えると不正確な話で、親父には歯がなかった。そのときは入れ歯を外していたので、歯ぐきを食いしばっただけだ。
 医者がノコギリでごしごしやっていたはずなのだが、医者についての記憶があまりない。医者のピーマンみたいにツヤツヤした顔だけが記憶にある。医者のノコギリが氷を切るような形のノコギリだったことははっきり覚えている。
 私は胸の立派な看護婦といっしょになって親父の身体を押さえていた、と書くと、またもや自問自答してしまう。なぜ押さえていたのか、なぜ患者の家族である私がそんなことをしなければならなかったのか、というような疑問が湧いてくる。しかし、私は話を面白くしようと思って、こんなことを言っているのではない。いや、自然に面白くなればそれはそれでかまわないのだが、嘘までついて話を面白くしたくはない。
 私には姉が二人いるが、下の姉が言うところによれば、私は親父の身体を押さえながら、「痛い痛い」と叫んでいたそうだ。小心者の面目躍如というところだ。小便ぐらいちびっていたかもしれない。
 いつも冷静な下の姉の記憶によれば、私と看護婦が両側から親父の身体を押さえつけ、下の姉が親父の頭を押さつけていたのである。この話も、ずいぶん昔、下の姉から聞いたのだが、私は何にも覚えていない。あまりに怖かったので、半分気を失っていたのだろうか。そうかもしれない。足を切り取ったあとのことははっきり覚えている。
 足が切り落とされ、医者がどこかに消え、私が姉を親父のそばに残し、待合室で煙草をふかしていると、親父の足がストレッチャーに乗せて運ばれてきた。足が白い包帯でぐるぐる巻きにされ、大根みたいに見えた。私といっしょに親父を押さえつけていた胸の豊かな看護婦がストレッチャーを押してきた。
 看護婦は、そばに来ると、なぜか蚊の鳴くような小さな声で、
 「どうか持って帰って下さい」
 と、ささやいた。待合室には誰もいなかった。
 そこで私も、
 「有り難うございます。要りません」
 と、ささやいた。
 看護婦はさらに小さな声で、
 「いえ、それは困ります。当病院では切断した足はお持ち帰り頂くことになっていますので」
 と言った。このとき私はようやく事態を正確に理解した。
 足は、どうしても私が持って帰らなくてはならないのだ。
 しかし、肺ガン手術のときは、切り取った肺の一部を病院は処分してくれたではないか。私には腐った肺を持ち帰った記憶はない。腐った足だとなぜ持ち帰らなくてはならないのか。それに、きょうは大晦日で、明日は元旦だ。兵庫県のこんな田舎町から三時間も電車に揺られて、親父の足を私の住んでいる京都の団地に持って帰れと言うのか。そして、親父の足と正月を過ごせというのか。妻の顔が浮かんだ。
 私の家にはこんな大きなものを入れる冷蔵庫はない。病院に泊まり込んでいたため、家には一週間ほど帰っていないが、我が家の冷蔵庫にはすでに正月用の食べ物がぎっしりつまっているはずだ。それを放り出して、親父の足を入れろというのか。そんなことをしたら、すでに両足がついていた頃の親父にうんざりしていた妻は家を出て行くだろう。おまけに、原因不明ながらも、私の家では小学生の息子が学校に行かないで、もう一年以上も自分の部屋に立てこもっている。息子が冷蔵庫をあけて足を見つけたら、どんなことになるか。考えるだけで倒れそうになる。
 しかし、そうかといって、足を下の姉に持って帰ってもらうわけにはいかない。これまでも親父の世話は下の姉夫婦に任せっきりだった。切り取った足まで家に持って帰ったら、温和なだけが取り柄で、不器量で貧相な肉体をもった下の姉は亭主に離縁されるかもしれない。ここはやはり長男である自分が何とかしなければならない。
 私が思案に暮れていると、胸の豊かな看護婦が、
 「どうしたらいいんでしょうね。困りましたね。病院では引き取れないんですよ。ほんと困りましたね。こういう場合、どうしたらいいんでしょうね。きょうは小松さんがいなくて・・・あ、そうだ。ピンポーン、市役所にでも聞いてくれますか」
 と、テレビのコマーシャルみたいに人差し指を立てて言った。
 なぜ市役所なのか。なぜピンポーンなのか。私は自暴自棄になりそうな気持を押さえながら、質問を呑みこんだ。最初会ったときから、この看護婦には何を言っても無駄なような気がしていたのだ。こちらから何か質問すると、取り返しのつかない騒ぎが持ち上がりそうな気がする。
 と言っても、きょうは大晦日だ。市役所には誰もいないだろう。そう私が言うと、看護婦は、ともかく持って帰って下さい、と肩で息をしながら繰り返した。そうでないと、自分が家に持って帰らなくてはならなくなる、私にだって生活がある、と、わめきだしそうな気配だった。この病院はいったいどうなっているのか。今までこういうことはなかったのだろうか。たぶんなかっただろうな、と私は思った。こんな田舎の病院で、それもよりによって大晦日に足を切り落とすなどということはなかったんだろうな、だから、こんなに看護婦が困っているんだろう。
 私は看護婦から大きな透明のビニール袋をもらうと、足を包んだ。それを下の姉の軽四自動車に乗せ、市役所に向かった。
 足を切ったのはお昼だったのに、いつのまにか暗くなっている。粉雪がちらついている。市民病院からほんの三十秒ほど走ると、市役所に着いた。市役所は真っ暗だった。役所というのは、夜になると、どうしてこんなに陰惨な雰囲気を漂わせるのだろう。中で髪の長い女が首でも吊っているみたいだ。
 公衆電話から市役所に電話をかけた。何度かかけると、ようやく、不機嫌な男の声が聞こえた。
 「足を捨てたいんですが、どうすればいいでしょうか」
 私はいきなりそう言ってしまった。そう言ったあと自分でも驚いた。頭のねじがどこかゆるんでしまっているようだ。この一週間、あまり眠っていない。しかし、言ってしまった以上、どうしようもない。
 相手は黙っていた。永遠に沈黙するのではないかと思われるほど長い沈黙だった。
 私はおそるおそる今度は丁重に事情を話した。市民病院の看護婦に言われて親父の足を車に乗せて市役所にやってきたのだが、どうすればいいのか、と。相変わらず相手は黙っていた。
 しかたがない。このまま須磨の浜にでも持っていって捨ててしまおう。足が発見されたら、バラバラ事件と思われて、大騒ぎになるだろう。かまわない。それで警察に逮捕されてもかまわない。私が失うものは何もない。親父の借金を抱え、実家も失い、私自身無職同然の非常勤講師暮らしだ。私の生活が破滅に向かっているのは明らかだ。いつ死んでもいいのだ。私の中の粗暴なものは、もう後戻りできないぐらい膨れあがっていた。何かがぶちんと切れてしまいそうな予感がした。すると、不意に、
 「足ね、うーん」
 と相手がうなった。
 「足なんですよ」
 と、私は応答した。相手はまた沈黙した。しばらくすると、
 「やっぱり焼き場かな」
 と、つぶやいた。
 「焼き場ですか」
 「よく分からんのだけど、やっぱり焼き場だな。焼き場だな。」
 焼き場だな、焼き場だな、焼き場だな・・・と、男は繰り返すと、電話を切った。そしてどこに出入り口があったのか、いきなり暗い市役所の中から姿を現した。小柄な老人だった。
 いかにも尻軽という風に、ひょこひょこ私に近づいてくると、焼き場の在りかを教えてくれようとするので、私は老人の言葉をさえぎった。地元の人間なので、何度もその焼き場には行ったことがある。場所は覚えている、と思う。それはそうと、いま焼き場に人はいるのか、と言うと、これも、人ね、うーん、という答だった。もし人がいなければ、元旦の朝まで親父の足と車の中で過ごさなければならない。腐ると困るので足は車の外に置いておいた方がいいだろう。しかし、野良犬にかじられたらどうする。
 私は老人に礼を言うと、焼き場に行くため、町を抜け、山道にそって車を走らせた。対向車がまったく来ない。
 ずいぶん走って道が次第に細い山道になってきたけれど、焼き場にたどり着かない。このままだと、須磨に出てしまう。義経が平家を襲ったひよどりごえが近づいてくる。私はそのとき初めて、ひとりで焼き場に来るのは初めてだということに気付いた。いつもマイクロバスか、誰かの車に乗せられて来たのだ。あの老人に道を聞いておけばよかった。
 私は車を停め、来た道を戻ろうと、Uターンするため身体をねじり、背後を見た。後ろの座席に置いた親父の足が目に入った。うずたかく積まれた小さなダンボール箱に挟まれている。ダンボール箱には下の姉の内職のための品が入っているのだ。
 私はこの暗闇の中で親父の足と二人きりだ。ラジオをつけた。村田英雄の「無法松の一生」が流れてきた。紅白歌合戦だ。その歌を最後まで聴くと私は車を再び動かした。
 焼き場には水銀灯がひとつ点いたきりだった。車を降り、焼き場の建物に近づいてゆくと、裏手から灯りが漏れていた。ドアらしきものをどんどん叩くと、がっしりとした中年男が綿入れを羽織って出てきた。来た理由を言うと、「ああ、それはあそこ」と手慣れた感じで言った。男の指さした先を見ると、塀の下に無数の犬や猫の死骸が並んでいた。「あそこなの」という私の問いに、男は黙ってうなずき、建物の中に消えてしまった。私は親父の足を車から引きずり出し、ビニールから出すと、シェパードのそばに置いた。
 それから三ヶ月して親父は死んだ。足をどこに捨てたか、誰にも言わなかった。