村を過ぎる

 親父が死んだのは夕方だった。
 こういう場合、私の田舎では普通、遺体を棺桶に入れ、病院からいったん自宅に戻す。そして、翌日、自宅あるいは葬儀場で通夜を行い、その翌日葬式という段取りになる。病院で夕方に亡くなると、その日通夜ができないので、葬儀の段取りが一日分増えるというわけだ。
 しかし、自宅はすでに人手に渡り、親父夫婦は手狭な県営住宅に移り住んでいる。両親と言わずに親父夫婦と言うのは、親父はお袋が亡くなったあと、後妻をもらったからだ。その後妻の住む県営住宅に親父を運んで行くわけにはゆかない。このため、病院には無理を言って、親父を死体ケースに入れたあと、翌朝まで病院地下の死体置き場に置かせてもらった。
 三月もまだ初めで、コンクリートを打っただけの死体置き場はひどく冷えた。私はしばらく親父のそばに座っていたが、たまらず待合室に上がり、椅子を並べて身体を横たえた。これまでこの市民病院で、お袋、従兄弟、親父と看護してきて、彼らが死ぬまで、そんな風にして寝てきたが、病人が死んだあと待合室で寝るのは初めてだった。
 待合室にはいつも誰かが寝ていた。毛布を貸してくれる人もいた。しかし、きょうは誰もいない。
 待合室の暖房は午後九時に切れる。身体の冷えを押さえるため、私は病院近くの酒屋に行き、自動販売機でワンカップ大関を買った。
 朝の四時頃、私がうとうとしていると葬儀屋が来た。葬儀屋の男が親父さんにはお世話になりまして、と言った。私はこれまで何度、これと同じことを見知らぬ人から言われたことか。外では世話好きな好人物として通用していたということか。男は死体置き場に降りてゆき、親父を死体ケースから出し、棺桶に入れ、霊柩車に乗せた。私は見ていただけだ。
 葬儀場は海辺にあるということだった。車は病院を出ると、私の知らない道に入った。この道でいいのか、と私が聞くと、男がうなずいた。しばらく行くと、私はこの村の出で、と男が言った。その村には私の小学校時代の友達が何人かいるはずだ。お名前は、と私は男に尋ねた。男は私の知っている懐かしい姓を答えた。その姓を聞くと、私は親父のところで働いていた男のことにふれた。
 男は何もかも知っているという顔でうなずいた。その男は中学を出たあと、親父の店で働いていたが、夜寝ていて、ぽっくり病で死んだ。そのあと、まるでその男のたたりみたいに、親父には災難が続いた。九州に出張していたとき、軍隊時代の肺壞疽が再発し、動けなくなった。そのため高校生だった私が九州や中国地方の得意先を回り集金し、注文を取った。親切な人もいたが、軒先で追い払われることもあった。子供のときから貧困故の屈辱には慣れていたが、軒先から蠅のように追い払われる屈辱にはいつまでたっても慣れることができなかった。
 その村を過ぎると、車は不意に親父の生まれた村を一望できる川沿いの道に入った。
 「こんな道ができたのか」
 と、私が驚いて言うと、男が黙ってうなずいた。男は前を見つめたままだった。薄闇の底で三十戸ほどの村がまだ眠っていた。
 「できすぎた話だな」
 と、私は村を眺めながら棺桶の中の親父に言った。