みすず書房へのメール

 次に私が2008年2月初めにみすず書房に送ったメールを一部省略して載せる。今読めば、ここで私が自分をキリスト教徒ではないと述べているのは不正確。私はシモーヌ・ヴェイユキリスト教徒にならなかったのと同じ意味でキリスト教徒ではないということだ。なお、もちろん送付したメールにはなかったものだが、PDF化した私の論文を本文に挿入する。

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 みすず書房様、初めてお便りします。私はドストエフスキーの研究者です。これまで貴社の良心的な出版方針には深い敬意を払ってきました。
 しかし、私は最近貴社から出た、亀山郁夫の『『悪霊』神になりたかった男』を読み、驚きました。私は、みすず書房は社会的責任を果たすため、この本を即刻絶版にし、書店や図書館から回収しなければならないという結論に達しました。そうでないと、亀山郁夫の犯罪的行為に加担することになります。私は亀山には個人的な恨みはありませんし、また亀山と敵対する派閥に属しているわけでもありません。私はドストエフスキー研究者として、亀山のその本は即刻、絶版・回収しなければならないと思うだけです。
 この本の犯罪的な内容については「ドストエフスキーの壺の壺──シニフィエはどこにもない」(『江古田文学66』、日本大学・藝術学部発行)で私は批判しました。
 [file:yumetiyo:ドストエフスキーの壺の壺.pdf]
 それもお読みいただければ幸いです。そこでは理論的に批判していますが、以下では、もう少し詳しく、なぜ絶版・回収しなければならないかについて述べます。
 亀山の本は「理想の教室」と銘打たれた、高校生や大学生などに向けたドストエフスキー入門書というふれこみですので、本の内容を何も知らない司書なら高校の図書館などに並べるでしょう。しかし、12歳の少女を誘惑し、性的行為を行い、見捨て、自殺に追い込む、というような内容をもった「スタヴローギンの告白」を論じた亀山のその本が高校生などに対するドストエフスキー入門として不適切であることは明らかです。もっとも、今はそのことには触れないでおきましょう。
 それよりも私は、その自殺に追い込まれるマトリョーシャという12歳の少女に唾を吐きかけるような亀山の叙述を犯罪的だと思います。
 誰が読んでも、マトリョーシャが母親からやってもいない盗みの罪を着せられ、折檻され、泣いているのは明らかです。そのことを私は『悪霊』(新潮文庫)を文学の授業(受講生30名)で読んでいたので、学生たちに確かめました。ロシア語を読めない学生にも、翻訳で十分分かることです。それを亀山は母親から折檻されているマトリョーシャが性的な「マゾヒスティックな喜び」を覚えていると述べるのです。自分の行為の残酷さを亀山は理解しているのでしょうか。ドストエフスキーを理解している者の振る舞いとは思えません。
 ご存知でしょうが、「神がなければ何でも許される」とドストエフスキーが思っていたわけではありません。それは『カラマーゾフの兄弟』のイワンの言葉にすぎません。この場合、キリスト教徒でない私のような人間は、「神」という言葉を「常識」という言葉で置き代えてもいいでしょう。私たちは皆、常識のうちに生きているので、何でも許されているわけではないのです。常識のうちに生きていない人とは、もちろん狂気のうちに生きている人です。
 従って、「常識的」に「スタヴローギンの告白」を読めば、私の学生たちのように、30人中30人が、マトリョーシャが母親からやってもいない盗みの罪を着せられ、折檻され、泣いている、と読むのです。そして、そこからドストエフスキー論は始まるのです。この最初の基本的な読みで亀山は間違えています。『悪霊』を読んでいない者だけが、亀山の非常識な説に同調するのです。
 また、亀山のマトリョーシャに関する叙述は、いじめている者が誰かをいじめながら、そのいじめられている者が「喜んでいる」と見ているのと通じるところがあります。子供だけはなく、大人のいじめでもよくある事態です。要するに、亀山はいじめをやる連中と同様、サディスティックな喜びをいじめられているマトリョーシャに対して覚えているのです。悪ふざけがすぎると思います。また、こんなことを東京外語の教授が書いているんだ、と、読んだ高校生が思うとすれば、世の中のことは何もかも信用できなくなるのではないでしょうか。私は同業者としてとても恥ずかしく思います。いじめは犯罪です。それをそそのかす者も犯罪者です。この意味で亀山のその著書を犯罪的だと言うのです。
 この本はドストエフスキーを理解できない者がドストエフスキーを論じると、いかにグロテスクなことになるのかの典型例だと思います。即刻絶版にして回収すべきです。ドストエフスキー論を読んで、私自身こんなに不快になったのは生まれて初めてです。どうか、日本の社会をこれ以上荒廃させないで下さい。貴社の見識と健全な判断に期待します。
 以上の点で疑問があれば、メールを下さい。詳しくお答えします。なしのつぶては困ります。お返事下さい。お返事がなければ、私の方から貴社に出向きます。