芸術の力

 このたび来日した、ビーチ・ボーイズのメンバーだったブライアン・ウィルソンの言葉(『朝日新聞』、2016年3月23日夕刊より)。
 「音楽を作るのは時に、とても孤独な作業。その孤独から僕自身を救い出してくれるのは、メロディーなのです、おそらく」
 たしかにそうだ。ベートーベンの後期の弦楽四重奏曲などを聞いていると、とくにそう思う。たとえば、13番第5楽章のカヴァチーナなどは、このメロディを作るためにベートーベンは13番を書いたのだとさえ思う。
 これは小説や詩でも同じだ。
 たとえば、ドブロリューボフなどから駄作と酷評されたドストエフスキーの『虐げられた人びと』でも、この文章を書くためにドストエフスキーは『虐げられた人びと』を書いたのだろうと思われる文章がいくつかある。
 そのような素晴らしい文章はある流れの中で生まれる。それはメロディと言ってもいいくらい、音楽的だ。そんな文章はむりやり作っても生まれない。凡庸な作家はそれをむりやり作り、失敗する。むりやり作るから凡庸な作家と言われるのだ。彼らはそれが出てくるのを待つことができない。だから、凡庸な作家はいつまでたっても凡庸であり、自分の孤独に苦しむのだ。
 一方、ドストエフスキー萩原朔太郎のような小説家や詩人は、なるほど孤独ではあるが、その作品によって孤独から救われるのだ。だから、その作品を読む読者は孤独から救われるのだ。これが芸術の力というものだ。読んだあと、あるいは聴いたあと、私たちを孤独に突き落とすような作品は芸術作品とは言えない。