芸術とは何か

 
 先に述べた「風立ちぬ」の話の続き。
 ドストエフスキートルストイのどちらがいいか、とか、ベートーベンとバッハのどちらがいいか、とか、朔太郎と中也のどちらがいいか、とか、ゴッホマチスのどちらがいいか・・・というような質問は愚問に他ならない。また、ドストエフスキーの小説の中でも『貧しき人々』と『カラマーゾフの兄弟』のどちらがいいか、というような質問も愚問だ。
 そんな質問をする人は芸術作品というものの意味が分かっていない。いや、それ以前に、生きるとはどういうことなのかが分かっていない。
 芸術作品とは、「リアリティとは何か(2)」で述べたように、その作者の生を言葉や音や色あるいは線などで反復・変容したものに他ならない。その作者の生というものは、私たちの指紋がひとつひとつ違うように、ひとつひとつが違う。また、たとえば、同じ作者であっても、『貧しき人々』を書いていたときのドストエフスキーの生と『カラマーゾフの兄弟』を書いていたときの彼の生は違う。
 ところで、人間の生とは何か。それは時間の別名に他ならない。私たちは他の誰のものでもない自分の生、つまり時間(ベルクソンのいう「持続」)を生きている。それは等質的あるいは量的に計測したり比較したりできるものではない。それは絶対無比の唯一の生であり時間なのだ。だから、私の悲しみは私だけの悲しみであり、他の誰かの悲しみと比較することはできない。悲しみのどん底であえいでいる人に、アフリカではもっと不幸な人たちがいるのだから悲しんではいけない、と慰めたところで、それは慰めにもならない。それは、その悲しんでいる人の生を、時間を等質的なものとしてとらえ、他の悲しみと比較しているのだ。要するに、その悲しみを、八百屋の店先にある大根と同じように捉えているのだ。この大根よりあの大根の方がいろつやが良いし重い、よし、これにしよう、というのと同じように。だから、そのような人は、その悲しんでいる人に張りとばされても文句は言えない。このような事態について初めて論理的に述べたのがベルクソン(『時間と自由』)だった。これについては、「非暴力を実現するために」で詳しく述べた。関心のある方はそれを読んで頂きたい。
 さて、その絶対無比の唯一の生に形を与えるのが芸術家だ。作品として再現された作者の生を鑑賞者が自分の生と重ね合わせるとき、感動が生まれ、嘲笑が生まれ、批判が生まれ、罵倒が生まれ・・・というような事態が生じるのだ。しかし、たとえその作品が自分にとって不快そのものであるとしても、その作品を他の作品と比較することはできない。まして、その作品をこの世界から追放することはできない。なぜなら、それは作者の生を他の誰かの生と比較することになるからだ。また、作者をこの世界から追放することになるからだ。これは同じ作者の異なった作品の場合も同じだ。私たちは長いあるいは短いさまざまな人生を生きているのだ。そのさまざまな人生の中から生まれた作品を比較することはできない。ドストエフスキーの『貧しき人々』と『カラマーゾフの兄弟』をどちらが優れているのかと比較することなどできないのだ。
 だから、「ドストエフスキーの作品の中で何がいちばん優れていますか」というような質問をする人は、芸術はもちろん、人間の生というものが分かっていない。かりに質問するとすれば、「あなたの求めている作品は誰の、何という作品ですか」という風に質問しなければいけない。