何を読むか(5)

「七万人のアッシリア人」(ウィリアム・サローヤン

 年を取ってくると、同じ本をとっかえひっかえ読むようになる、と、昔、年寄りの吉田健一石川淳が対談で喋っていた。吉田健一はそのあとすぐに、石川淳はそれからかなりたって亡くなった。石川はしぶといな、と思った。
 同じようなことを、年寄りではない森有正が日記の中で書いていた。それを書いてしばらくして森は亡くなった。森はもろいな、と思った。
 でも、本当にそうなのか、と、それを読んで、私は半信半疑だったのだが、年を取るにつれて、それが本当のことであることが少しずつ分かってきた。本を読むのが好きな年寄りにとって、繰り返し読む本というのはお経みたいなものだ。なんまいだ、なんまいだ、と唱えながら死んでゆくのだ。
 で、私はどんなお経を唱えて死んでゆくのだろう、そう思って、この「何を読むか」シリーズを始めたのだった。ドストエフスキーも含めて、私の場合、小説にそういう本が多い。私だけかもしれないが、年を取ると、抽象的な理屈が空しくなる。
 そういうことを作品で述べているのが、今回取り上げるサローヤンの短編集『わがこころ高原に』(ウィリアム・サローヤン、古沢安二郎訳、早川書房、1972)で、とくに「七万人のアッシリア人」という小説では、ジャーナリストや学者の書く文章にイヤミを述べている。
 『わがこころ高原に』はたしか、学生の頃、神戸外大の図書館で借りて読んでいたのを、あるとき、誰かが借り出していつまでも返却しないので(私は一年近く待った)、あきらめて買った本だ。その後、サローヤンは易しい英語を書くので、自分でも読めるだろうと思って、若い頃からペンギンで出ているのを少しずつ買いためていった。でも、ほとんど読まないまま本棚の中でページが黄色くなっている。買うだけで読んだ気持になっていたのだ。この前、久しぶりにページをめくったら、ページがばらばらと外れ、本が壊れた。目も悪くなったし、たぶんもう読むことはないだろう。
 話をもとに戻すと、「七万人のアッシリア人」を読んでいると、小説や詩を書かない人間は人間ではない、という気持になる。そして、猛烈に小説や詩が書きたくなる。と、思うのは私だけか。

 ぼくはもう四十日も散髪をしていないので、失業した四、五人のバイオリン弾きをいっしょくたにしたような格好に見えはじめて来た。どんな格好かみなさんにもわかるはずだ――食えなくなった天才が、いまにも共産党にでもはいろうかという格好である。ぼくたち小アジアから来た教養のない人間は、もともと毛深い民族なのだ。ぼくたちが散髪の必要があると思ったときは、本当に散髪をしないではいられない状態なのだ。ひどいの、ひどくないのなどと言っていられないくらいだ。ぼくなんか一つっきりの帽子がかぶれなくなったんだから。(ぼくはいまシリアスな小説を書こうとしているところである。恐らく自分がこれまで書いたこともないほど、シリアスなものである。だからこそ、こうしてきいたふうな口をたたいているわけである。シャーウッド・アンダスンの読者なら、しばらくしたら、ぼくの言っていることを理解し始めてくれると思う。つまり、ぼくの笑いが、ずいぶん悲しい笑いだということを、わかってくれると思う)ぼくは散髪の必要に迫られている青年である、だからぼくは三番街(サンフランシスコ)に降りて行って、十五セントの散髪をしてもらいに理髪大学に出かけた。

 サローヤンの小説はだいたいこういう、どこに向かっているのか分からない調子ですすむ。そして、さて、もうそろそろ、少し骨のある話がほしい、と読者が思うころ、次のような言葉が出る。

 世間の人たちが記憶していることに、ぼくが深い興味をもっているということを、みなさんに知って欲しいと思う。若い作家というものは方々に出かけて行って、世間の人たちと話をする。そしてその人たちが記憶していることを、引き出してみようと努めるものである。ぼくは短篇小説に大きな題材を使おうとは思っていない。ぼくは気まぐれな構想などを組み立てようとは思っていない。ぼくは見かけ倒しの、そつのない文体を使おうとは思っていない。ぼくは見事な雰囲気を作り上げようとも思っていない。ぼくはこの小説でも、ほかのどんな小説でも、『サタデイ・イーブニング・ポースト』誌や、『コスモポリタン』誌や、『ハーパーズ・マガジーン』などに売り込もうとは、べつに望んでいるわけではない。ぼくはシンクレヤ・ルイスとかジョーゼフ・ハーゲンシャイマーとか、ゼーン・グレーとかいう、短篇小説の大作家たちと張り合おうとしているわけではない。この人たちは売れる小説の書き方、作り方を、ちゃんと心得ている人たちなのだ。みんな金持で、(以下、略:萩原)

 と、有名作家に対するイヤミがえんえんと続くのだが、その話をやめると、主人公は不意に、自分の政治に対する考えを表明する。私たちがベートーベンの弦楽四重奏曲のある箇所を聞くために、その弦楽四重奏を繰り返し聴くように(キザかな?)、私はこういう文章に出会うためにサローヤンを繰り返し読むのである。

 ぼくは人種というものは信じない。ぼくは政府というものは信じない。ぼくは生命というものを一度にひとつの生命とみるのである。全世界にわたって同時に生まれる数百万の生命を、一つの生命とみるのである。いかなる国の国語をもまだ話すことを習わない赤ん坊こそ、地球上の唯一の人種である。つまり人間人種である。そのほかはすべてみせかけである――ぼくたちがいわゆる文明と呼び、憎しみと呼び、恐怖と呼び、権力にたいする野心と呼ぶものはすべて・・・しかし赤ん坊は赤ん坊である。そして赤ん坊の泣くその泣き方、そこに人間の友愛というものがあるではないか、泣いている赤ん坊たちに。ぼくたちは成長し、ぼくたちはすべての国語を通して、あるいは全然国語というものを通さずに、たとえば沈黙を通して、宇宙を眺めていない。そして自分たちの知っている国語の中に、自分たち自身を孤立させているのである。このアメリカでは、ぼくたちを英語を通して、あるいはメンケンの言うようにアメリカ語を通して、自分たち自身を孤立させている。すべての永遠なるものも、自分たちのことばの中に入れてしまうのである。もしぼくに何かやりたいことがあるとすれば、もっと普遍的な国語を話すことをやりたいと思う。人間の心、すなわち人間の書かれていない部分、それがすべての人種にとって永遠で、共通なものなのだから。
 いまぼくは悪いことをしているような、そして無力になったような気がしはじめている。ぼくはこれまでこれほど沢山のことばを使いながら、しかも何も言っていないような気になりだして来た。これが若い作家の気を狂わせるものなのである。つまりまだ何も言っていないという気持である。普通のジャーナリストなら、誰だってこんなことの全体を、三語の見出し語でかたずけてしまうことだろう。人間は人間なり、とジャーナリストなら言うことだろう。どんな沢山の意味でも含んでいる、相当利口な言い方である。しかしぼくはたった一つの意味しか持たないことばを使いたいのである。ぼくは意味というものは正確であって欲しいと思う。そして恐らく、それだからこそことばというものが、これほど不正確なのであろう。ぼくは自分の主題、自分の与えたいと思う印象、そういうもののまわりを歩いて、あらゆる角度からそれを見ようと努めている。そうすれば、僕は全体の画像を、つまり統一されて一体となったものの画像を、得られるだろうと思うわけである。ぼくがこの作品でそれとなく言おうとしているものは、人間の心なのである。

 私は「いかなる国の国語をもまだ話すことを習わない赤ん坊こそ、地球上の唯一の人種である」という言葉をにらみつける。そして、そのことがこの「七万人のアッシリア人」という短篇小説の中で表現されていることを確認する。
 私はまた「しかしぼくはたった一つの意味しか持たないことばを使いたいのである」という言葉をにらみつける。そして、そのことがこの「七万人のアッシリア人」という短篇小説の中で表現されていることを確認する。これが、なぜ小説を書くのかという問いにたいする答だ。あるいは、なぜ芸術作品を作るのかという問いにたいする答だ。このブログで繰り返し述べているように、「作品全体が美を定義する」のであり、作品全体がひとつひとつの細部を定義するのだ。

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2015/02/07、「私たちがベートーベンの弦楽四重奏曲のある箇所を聞くために、その弦楽四重奏を繰り返し聴くように」のあとに、(キザかな?)という言葉を付け加えました。考えてみると、ベートーベンの弦楽四重奏曲、とくに後期のものを繰り返し聴くような人は少数派かもしれない、と思ったので。