心の声

 若い頃。
 顔を見ただけで「私の会いたい人はこの人ではない」と思う人がいる。そして少し言葉を交わし、「やっぱり、思っていたとおりだった」と思う。一方、顔を見ただけで「私の会いたい人はこの人だ」と思う人もいる。そして少し言葉を交わし、「やっぱり、思っていたとおりだった」と思う。この場合、とくに何も考えない。
 しかし、逆の場合がある。「私の会いたい人はこの人ではない」と思っていたのに、会ってよかった、と思う場合、「私の会いたい人はこの人だ」と思っていたのに、会わなきゃよかった、と思う場合、なぜこんなちぐはぐなことになるのか。
 こんなちぐはぐなことになるのは、自分の心の声が聞こえないからだ、自分の欲望がその声の上にフタをしているから聞こえないのだ、と、若い私は考えた。欲望という色眼鏡を通して相手を見るから、相手の本当の姿が見えないのだ。
 欲望とは何か。それは、まあ、いろいろで、自分の自尊心を満たしてくれるものすべてだ。私にものをくれる友、私を批判しない友、私にやさしくしてくれる女・・・彼らはみな私の欲望を満たし、自尊心を満たしてくれる。
 相手に何かを求めていると、それを与えてくれそうにない人を「私の会いたい人はこの人ではない」と思い、それを与えてくれそうな人を「私の会いたい人はこの人だ」と思う。そして、会ったあと、喜んだりがっかりしたりする。求めているものを与えてくれそうな人がそれを与えてくれないと、がっかりするだけではなく、ときには、相手をののしったり恨んだりする。
 今。
 自分の心の声などない。そんなものはもともとなかったのだ。自分の欲望を心の声だと思う錯覚に陥っていたのだ。あるのは自分の欲望だけだ。だから、相手がどんな人間であろうとかまわない。私たちの欲望によって生み出される罪さえはっきり分かれば、それでいい。自分や相手に何かを求めていると、そのことで心が一杯になり、罪が見えなくなる。しかし、生きているかぎり、罪を犯すのは避けがたいのだ。