くたばれ、フロイト、ラカン!

 昨夜、テレビをつけると、偶然、『沖縄 うりずんの雨』を撮ったジャン・ユンカーマン監督が沖縄のことを話していた(BS-TBS「週刊報道LIFE」:2015/5/10/pm.21:00-22:00)。要するに、現在、沖縄といわゆる「本土」の関係が悪化しているのは、「本土」の人間の多くが沖縄のこれまでの悲劇を他人事(ひとごと)としてとらえてきたからだ、というのが彼の言いたいことだろう、そう私は思った。
 他人事!私たちにとって、すべてが他人事なのだ。だから、私たちは生きてゆくことができる。他人の苦しみがまるで自分のことのように分かるとすれば、私たちは生きて行けない。無数の他人の苦しみによって、私たちの精神は一瞬のうちに破壊されるだろう。私たちは他人の苦しみを横目で見ながら、その苦しみに何もできない自分に苛立ちながら、それを他人事だと思う。だから、生きていくことができる。生きるということは、忸怩たる思いを抱えながら他人の苦しみに目をつぶることだ。
 しかし、「中沢新一と亀山郁夫(1)」で述べたように、中沢新一亀山郁夫のように他人の苦しみにまったく共感できない人々、ドストエフスキーのいう「死産児」もいる。このような死産児たちの誰かが、たとえば沖縄の人々に共感しているかのように述べたところで、私たちはその言葉を信用することはできない。
 これと同じことは、斎藤環のようにラカンを賞賛しながら不登校児や引きこもり青年に同情するかのような態度をとる精神科医にも言える(斎藤環、『生き延びるためのラカン』)。「反精神分析」「『ドストエフスキー 父殺しの文学』批判(9)」などで述べたように、私はフロイトラカンに与する精神科医社会学者、哲学者、文学者などを信用しない。
 私が彼らを信用しないのは、くり返すが、彼らが死産児だからだ。死産児の多くは頭も良く、口も達者なので立派なことを言うが、そのじつ、他人に共感できない冷酷そのものの人間だ。こんなことを言うと、フロイトラカンに与する人々は、「へえ!」と驚くだろう。また、彼らは私が「反精神分析」で行った説明を読んでも、私がなぜフロイトラカンを批判しているのかが分からないだろう。
 なぜ分からないのか。それは彼らが傲慢であるからだ。つまり、彼らがいつでも他人の一枚上を行こうとしている、あるいは、すでに一枚上を行っていると思いこんでいる傲慢な人間であるからだ。彼らには他人の苦しみが分からない。傲慢な人間には他人の苦しみが分からないようになっている。メディアに登場する人間にこういう人間がいかに多いことか。金井美恵子現代日本の文学者たちが作っている世界を「『競争相手は馬鹿ばかり』の世界」(金井美恵子、『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』、講談社、2003)と言うのだが、これは新聞や雑誌などのメディアも同じだ。