優等生の愚かさ

 すでに「非暴力を実現するために」で述べたことだが、私は小学校に入って、先生のいう「1+1=2」の意味が分からず、ひどく苦しんだ。また質問しても答えてくれる先生もいなかった。先生は呆然とするだけだった。このため、そういう先生に教えてもらう学校の勉強がいやでいやでたまらなくなり、学校が終わると、やれやれとばかりに、家に勉強道具を放りこみ、友達と野球をして遊んでばかりいた。家で勉強した記憶はない。雨の日など、ギターを弾いたり、ぼーとしていた記憶はあるが。これは中学や高校に入っても同じで、音楽、さらに文学によって、退屈そのものの学校生活をなんとか乗り切ったのである。
 つまり、私が今のような音楽好き文学好きになったのは、「1+1=2」が分からなかったためだと言えるだろう。自分でもこれは事態を誇張して考えているのではないかと思うのだが、いくら考えても、同じ結論になる。だから、私の学校嫌いも「1+1=2」問題から始まっていると言える。
 この私を苦しめていた「1+1=2」問題が解決したのは、三十歳過ぎに離人神経症になり、それが治ったときだ。そのことについては、先に挙げた「非暴力を実現するために」という論文で詳しく述べた。小学校一年生のとき、私がその論文で引用したベルクソンのような先生に教えてもらっていれば、私はきっと勉強好きになっていただろう。
 しかし、私が教えてもらった学校には、ベルクソンのような先生はいなかった。いるのは、分かろうと分かるまいと「1+1=2」を暗記しろという先生だけだった。また、そう言う先生の教えを忠実に守る、あるいは守らない生徒だけだった。私の知るかぎり、「1+1=2」という事態そのものを疑う生徒はいなかった。いたのかもしれないが、その疑問を私のように口に出す生徒はいなかった。
 私は学校を小学校から大学まで過ごしたのだが、そこで分かったのは、優等生というのは、先生が「1+1=2」を暗記しろと言えば、それを暗記する生徒あるいは学生だということだ。もちろん、ここでいう「1+1=2」とは比喩にすぎない。「1+1=2」という比喩が内包するのは、あらゆる知的営みだ。そこにはキリスト教の聖書やアインシュタイン相対性理論などが含まれる。
 だから、こういう自分の頭で考えようとはしない優等生が大半を占める大学などの研究機関でソーカル事件のような椿事が起きるのは当然なのだ。
 ソーカルアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン、『「知」の欺瞞』、岩波書店、2000)が批判しているラカンクリステヴァなどが優等生であることは明らかだ。少しでも自分の頭で考えることができる者なら、ソーカルたちが指摘しているような無意味な文章を意味ありげに綴ることはできない。また、ラカンの弟子たち(ラカンの弟子だけではない)が、優等生である師を模倣する優等生であるのも明らかだろう。ラカンと彼の弟子たちは「実験や観察をないがしろにしてまで、「理論」(実は、形式的議論と言葉遊びのことなのだ)を重んじる」(『「知」の欺瞞』、p.51)。現在の文科系の研究者集団にはこのような形式的議論と言葉遊びがあふれている。うんざりだ。