ドストエフスキーと似非科学(1)

 すでに述べたことだが、いまだに似非科学を用いてドストエフスキーの作品を論じる人があとをたたないので、今一度述べておこう。
 科学と似非(えせ)科学は、再現性があるかないかで区別がつく。たとえば、最近話題になっているSTAP現象やSTAP現象で生成されるSTAP細胞に再現性があるとすれば、それは科学だし、ないとすれば似非科学だ。
 再現性がないとはどういうことか。それはある与えられた条件の中で一回しか生じないということ、つまり、一回性しかもたないということだ。これに対して、再現性があるとは、ある与えられた条件の中で反復して生じるということだ。
 ところで、私たちの生は後戻りがきかない一回性の中で生じる。あの過ちを正したいと思っても、それは不可能だし、あの喜びをもう一度味わいたいと思っても、もう二度と同じ喜びを味わうことはできない。私たちはいつも生の不可逆性の中で生きているのであり、同じ生を反復することはできない。
 それでは、私たちの生が一回性の中でしか生じないのなら、その生を反復可能なものとして把握しようとしているフロイト理論などは何の意味をもつのか。そんなものは無意味ではないのか。その通り。それは無意味なのである。しかし、それにも拘わらず、フロイトは人間の生にある種の反復性があると見て仮説を立てたのだ。それは仮説にすぎないのであって、せいぜい似非科学にすぎない。
 では、なぜそんな似非科学にこれまで多くの人々が熱中してきたのか。フロイトは世界中で読まれてきたし、フロイトの理論をソシュール理論によって作り変えたラカンのような人もいる。なぜそんな人がいるのか。
 それは、フロイトの理論が私たちに本当らしく思われるからだ。本当らしく思われるとは、その理論によって自分の生がこれまでより明確に理解できるようになったと思われるということだ。
 要するに、私たちは、ある理論を用いることによって、自分の生、そしてその生を取り巻く世界を、これまでより明確に理解し、あわよくば、それを支配できるかもしれないという幻想に囚われるのだ。この、自分は自分の生を支配できるかもしれないという幻想、言い換えると、自分は偶然この世界に投げ出された寄る辺ない無力な存在ではなく、自分の生とその生を取り巻く世界を支配できる存在であるかもしれない――そういう幻想を与えてくれるからこそ、私たちはフロイトの理論を信じたいと思うのだ。
 しかし、この自分の生とその生を取り巻く世界を支配できる存在とは、これまでユダヤキリスト教の世界では神と呼ばれる存在であり、それ以外の世界では、さまざまな名前で呼ばれる人間を超えた超越的な存在に他ならない。それが人間でないことは明らかだ。
 いま、ユダヤキリスト教の世界にのみ話を限定すれば、自分の生とその生を取り巻く世界を支配できる存在になろうとするとは、人間が自ら神になろうとすることに他ならない。この自らが神になろうとする心の動きが西欧近代において科学を作り出したのであり、それは同時に、神をこの世界から排除し殺し無神論を生み出すことになった。従って、たとえば、科学者でありながらキリスト者であるということは根本的に矛盾しているのだ。科学者とは無神論者の別名であると同時に、人間中心主義者(ヒューマニスト)の別名でもある。これと同じことは、似非科学者ではあるが、フロイトにも言えるし、フロイトを信奉している人々にも言える。
 しかし、繰り返すが、私たちの生は不可逆的なものであり、その一回性を疑うことはできない。それにも拘わらず、私たちはフロイトの理論のようなものにしがみつく。あえてしがみつくと言おう。それは現実から遊離した、とても子供っぽいふるまいなのだ。そうではあるが、繰り返すが、このような理論が私たちに世界を支配できるかもしれないという喜びを与えてくれることはたしかだ。だから、それが似非科学だということを理解してさえいれば、知的な遊戯としてこの世界に存在していてもかまわない、そう断言する人がいるかもしれない。
 しかし、そのような似非科学の存在そのものが暴力を生み出す。なぜなら、誰もがフロイトの理論のようなものを知的な遊戯だと思うとは限らないからだ。遊戯とは思わず、その理論を真実だと思う人がいることはたしかだ。フロイト研究に一生を捧げる人は多い。このような人々はフロイト理論、あるいはそこから派生したラカン理論などを人に押しつけ、人間やその社会を理解しようとする。このとき、フロイト理論は知的な遊戯ではなく、真正の暴力になる。
 理論というものが物語の一種であるということについて、私はこれまで多くの論文で述べてきた。また、物語には二つの面――癒やしと暴力があるということについても述べてきた。それをここでも反復すれば、フロイト理論にもまた癒やしと暴力の二つの面がある。癒やしとは、フロイト理論を知ることによって、自分はこの世界を支配できるかもしれないという幻想を与えられるということだ。一方、暴力とは、その似非科学にすぎないフロイト理論を人間に当てはめることによって、生の一回性を無視し、その生をまるで反復可能な機械のように扱うようになるということだ。フロイト理論によって洗脳されないかぎり、心理療法士などからこの暴力を向けられた患者は激しい怒りを覚えるだろう。
 これはドストエフスキードストエフスキーの作品にとっても同じだ。ドストエフスキードストエフスキーの作品にフロイト理論を適用してはいけない。フロイト自身がドストエフスキードストエフスキーの作品に自分の理論を適用したということ、これはフロイトの愚かさを証明しているだけなのだ。このフロイトの愚かさについては小林秀雄がすでに大岡昇平との対話(「現代文学とは何か」)の中で指摘しているので、引用しておこう。ここで小林のいう「心理のメカニズム」とはフロイト理論とは何の関係もない。それはゴッホの人格によって生み出された一回性を帯びた物語にすぎない。

 フロイドは多分間違っちゃいまいよ。死の願望をゴッホの手紙に見付けるのはわけはない。しかし、困った事は、フロイドには心理という人間の部分が複雑なんだが、例えば僕にはゴッホの一生という全体だけが複雑なんです。心理のメカニスムは人格とは何の関係もない、これはゴッホ自身の信念でもあるんです。心理学者はこんな信念がそもそも心理学的一症例に見えるだろう。そうなるともう馬鹿馬鹿しいと僕は思って了うのだな。ゴッホはそういう信念を体験から得たのです。時々発狂しなければ生きて行けない様な生活を体験する事態となって、他にどんな生き方が可能ですか。仕様がないよ。そして正しいのだ。自分の発作を、どうしても自分のものではない心理のメカニズムと考えたいのだ。そう考えなければ正当に生きる理由がどこにもないという、そういう処だけに人格はある。そういう努力感が手紙に実によく現われています。で結局発作の方に敗けてしまったのだが、敗けたって勝った方に真理があるという理由にはならんからね。(昭和29年8月)

(続く)