ドストエフスキーと似非科学(2)

 人間の生は一回性しかもたない。従って、フロイトのように、人間の生、とくに心をあたかも機械のようにあつかうのが間違いであることは明らかだ。それはそうなのだが、フロイト理論がすべて間違いかと言えば、そうとも言えないところがある。たとえば、私たちは自分が抑圧してきた無意識の怒りに驚かされることがある。自分ではもう済んだことだと思っていたのに、その怒りの源となった張本人に出会ったりすると、怒りがこみあげてきて抑えきれなくなる自分に驚いたりする。怒りだけではなく、喜びについても悲しみについても、こういうことは多い。だから、フロイトの無意識に関する理論がまったく間違いかと言えば、それはそうとも言えないと思う。それにも拘わらず、それは誰にも反復可能で再現可能な理論ではないので仮説にとどまる。そして、すでに述べたように、この仮説の根幹をなすエディプス・コンプレックスやナルシシスムの理論がジラールによって誤りであると証明された。だから、フロイト理論は理論としてすでに破綻しているのだ。
 ところで、私たちがひとりひとり異なり、人間の生が一回きりのものであるからと言って、その生がまったく反復不可能で再現不可能だと言うのも、言い過ぎであることも明らかだろう。とくに、身体に関しては、医学の発達によって、身体を機械のように再現可能なものとして扱ってもかまわないと多くの人が思っている。胃の調子が悪いときは胃薬を飲めばある程度治るし、ガンも早期発見すれば治療可能かもしれない。これは人間の身体がある条件下では機械のようにいつも同じ動きをすると見なしてかまわないと思われているからだ。
 しかし、繰り返しになるが、精神について言えば、その大部分が反復不可能で再現不可能だ。しかし、精神においても身体と同じように反復可能で再現可能な現象が生じるのも明らかだ。たとえば、先に引用した小林秀雄はそのことを指摘している。

時々発狂しなければ生きて行けない様な生活を体験する事態となって、他にどんな生き方が可能ですか。仕様がないよ。そして正しいのだ。自分の発作を、どうしても自分のものではない心理のメカニズムと考えたいのだ。そう考えなければ正当に生きる理由がどこにもないという、そういう処だけに人格はある。

 要するに、ゴッホには、その「発狂」は、胃弱の人の胃痛と同様、どうしようもないことなのだ。ゴッホはその発狂という繰り返し襲ってくる「心理のメカニズム」を自分の運命として受け入れるほかない。この反復され再現される自分の病を受け入れることによって初めて、彼は生きてゆける。その病を受け入れないということになれば、自殺するしかない。だから、そのような自分の運命を受け入れるということ、これが彼の人格を形作るのである。これが小林の言いたいことだ。
 ゴッホと同じことはドストエフスキーにも言える。彼が自らの癲癇(てんかん)という病と依存症という病に苦しんだことは明らかだ。ドストエフスキーにおいて、その反復され再現される癲癇と依存症という病は、その人格に深く刻みつけられているのである。彼の人格について論じるとき、癲癇および依存症の影響を無視するのは間違っている。しかし、何度も言うように、人間の生を機械のように捉えることはできない。とくにその心の領域を機械のように反復可能で再現可能なもののように捉えることはできない。しかし・・・
 という堂々巡りに悩みに悩んだあげく、私はもう二十年ほど前、えいやっとばかりに思い切り、ドストエフスキーとその作品を似非科学によって解明しようと試みたのである。もちろん、できるだけ似非科学的でないと思われる理論をドストエフスキードストエフスキーの作品に適用したのだ。それが私の「誰がドストエフスキーを読むのか」(『大阪経大論集』、第45巻4号、1994年11月、pp.111-163)という論文だ(各市町村にある図書館に申し込めばコピーを手に入れることができると思う)。私はこの論文で、安永浩、木村敏作田啓一の理論を用いて、ドストエフスキーの人格に彼の癲癇という病がどのような影響を与えているのかを論じた。とくに安永のファントム空間論は安永が自分の勤務病院(東大病院)で使っていた理論なので、ある程度信用できると思う。一方、ドストエフスキーの依存症が彼に与えた影響については 「わが隣人ドストエフスキー」という論文で述べた。いずれも似非科学を用いての考察なので眉に唾をつけて読んで頂きたい。しかし、フロイトドストエフスキー論よりはましだろうと自負している。
 
(以下の箇所は修正しました[2014/04/30]:「そして、すでに述べたように、この仮説の根幹をなすエディプス・コンプレックスやナルシシスムの理論がジラールによって誤りであると証明された。だから、フロイト理論は理論としてすでに破綻しているのだ。」)