反精神分析

 最近、朝日新聞に連載されていた「人生の贈りもの わたしの半生」シリーズで上野千鶴子氏が記者の質問に次のように答えていた。

 ――家族や生い立ちについては一切答えない、としていた時期もあったそうですね。

 子ども時代のことを聞くインタビュアーって、育ちが人格や活動を決定づけるというフロイト的な因果物語を作りたがるじゃない?それが気持ち悪くてイヤだった。この年齢になれば、育ちが人生を規定する以上に、その後の経験が自分を作っている。親からは、受け取ったものもあるし、受け取らなかったものもあります。(『朝日新聞』、2015年4月21日、夕刊)

 昔、マザコンだと自閉症になるとか不登校になるという珍説を述べていた上野氏フロイトをこんな風に批判しているのに少し驚いたが、私は上野氏に賛成だ。と言うより、フロイトフロイトの後継者であるラカンなどは百害あって一利なしだと思っている。その理由については、「ドストエフスキーと似非科学(1)」とその続きの「ドストエフスキーと似非科学(2)」で簡単に述べた。要するに、人間や社会を科学によって把握するのは不可能なのに、フロイトラカンはそれがあたかも可能なように述べている。私は彼らを人間や社会のことが何も分からない低脳か、低脳でなければ詐欺師だと思っている。
 と言っても、私も若い頃、上野氏と同様、フロイトのマザコン説などを真っ赤な嘘だとは思っていなかった。また、フロイトラカンなどの精神分析を「文学的比喩」としては面白いと思っていた。それは科学ではないが、文学的比喩あるいは知的遊戯として面白いものだと思っていた。そんな風に思ったのは、若い頃愛読していた吉行淳之介の影響もあるだろう。吉行はフロイトを面白い知的遊戯としてしばしば引用していた。一方、三島由紀夫は、フロイトを断固拒否していた。戯曲以外の三島の作品にあまり共感できなかった私は、このような三島の態度をたんに自己防衛的なものと意地悪く解釈した。三島は自分の同性愛的な傾向をフロイト的に分析されるのがイヤなんだろうな、とか。しかし、今では、精神分析に対しては吉行のような態度ではなく、三島のような態度を取るのが正しいと思っている。くり返すが、フロイトラカンなどは百害あって一利なしだと思っている。
 なぜそう思うようになったのか。
 それは、「ドストエフスキーと似非科学(1)」で述べた理由の他に、患者に対してフロイトラカンのような態度で接していると、レヴィナスのいう「帰還なき旅」に出ることができないからだ。言いかえると、たとえばそれが医者だとすれば、フロイトラカンの理論を胸に秘めて患者に向き合うとすれば、患者とちゃんと向き合うことができなくなるからだ。また、それがたとえば親だとすれば、自分の子どもとちゃんと向き合うことができなくなるからだ。
 ちゃんと向き合うとはどういうことか。それは相手を操ろうとはしないということだ。詳しくは[file:yumetiyo:「引きこもり」私感.pdf]を見てほしいが、相手を操ろうとするとき、私たちは相手と心が通じなくなる。そして互いがますます不幸な状態になる。フロイトラカンの理論を通して相手を見るということは、もうそれだけで相手を操ろうとしていることになる。相手はそれを敏感に感じとる。そんなことは自分を相手に置き換えて考えて見れば分かることだ。その自明のことが、フロイトラカンに洗脳された医者や親には分からない。
 私は以上のことが正しいことを、数多くの不登校児や引きこもり青年、またその親御さんたちと会うことによって確認してきた。くたばれ、フロイトラカン