ラニョー

 「優等生の愚かさ」で述べたように、優等生というものは自分の頭で考えようとはしない。それは、自分の頭で考えていると効率が悪いからだ。効率が悪いとはどういうことか。
 それは、正しいかどうか分からないが、ともかく、先生が正しいと言っているのだから疑うのはやめよう。先生に逆らっていると身体も頭も疲れる。腹も減る。それに先生から恨まれるかもしれない。悪い点数をつけられ、出世にひびくかもしれん。そして、なによりも、そんなことをしていると、やたら時間を食う。それはやっかいだ。世の中、なんでもさっさとやるのがいちばんだ。効率、効率、効率のいいのがいちばんだ。
 これが優等生の考え方だ。少なくとも、私の回りにいた優等生はこういう人たちだった。こういう人たちは先生にきわめて従順で、先生の言うことを反復するだけだ。
 しかし、神ではない先生が人間であり、人間が万能でないことも明らかなのである。神の目から見れば、先生も生徒も正視しがたい悪徳と欠点をもつ人間にすぎない。従って、生徒が自分に従順なことを喜ぶ教師は馬鹿か狂人にすぎない。
 アランの高校の教師であったジュール・ラニョーは「生徒を論理的に説得するのではなく、真理に近づくにはいかなる態度を取るべきか身をもって示そうとした」。このため「彼のクラスは知性の鍛錬の場であると共に、勇気をためす場ともなった」(アラン、『ラニョーの思い出』、中村弘訳、筑摩書房、1980、pp.163-164)。教育とは教師の言葉を反復するロボットを作ることではない。自分の頭で考えることができる人間を育てることだ。