奈良で「ドストエフスキーとバフチン」の講座を開きます

ドストエフスキーバフチン

東大寺そばの日本庭園が美しいカフェでお茶菓子をいただきながら、ドストエフスキー作品(今回は『悪霊』)を読み深めていく講座です。ロシアの思想家バフチンの「ポリフォニー論」による解説とドストエフスキーの思想的・政治的・文学的観点について述べながら、生きることの意味を問うていきます。

講師 萩原俊治(大阪府立大学名誉教授)

定員: 15名(先着順)

受講料: 15000円(資料代込)

開講日: 2024年 1月~5月

(毎月第1・第3月曜日) 全10回

時間: 15時~16時30分

※1月のみ第2・第4月曜日です(1/8・1/22)

前・後期合わせて年間20回の講座です。

 

申込方法:Eメール

①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、下記へお申し込み下さい。

Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp

※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用は一切いたしません。

※カフェ開催のため、お茶菓子代500円(税込)が各自ご負担となります。飲食物の持ち込みはご遠慮下さい。

【使用テキスト】※各自で事前にご購入下さい。

ドストエフスキー詩学』(ミハイル・バフチン著、望月哲男/鈴木淳一訳・ちくま学芸文庫

ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著、イーグレープ)

『悪霊』(ドストエフスキー著・全二冊/江川卓訳、新潮文庫)

 

場所:オレンジカフェ すいもん

社会福祉法人 晃宝会)

住所:〒630-8208 奈良県奈良市水門町47-3

近鉄奈良駅より徒歩15分

奈良交通バス停留所「押上町」「県庁東」より徒歩5分

大阪講座「ドストエフスキーを読む」の開講案内

大阪で講座「ドストエフスキーを読む」を開講します。

 前回に引き続き『悪霊』を読みながら、ドストエフスキーの持つ唯一無二の魅力を味わい、生きることの意味を問うていきます。

講師 萩原俊治 (大阪府立大学名誉教授)

時間 14:30〜16:00

日程 2024年 1月6日(土)開講

(全10回・土曜日開催)

講座日: 1/6、1/20、2/10、2/24、3/9、3/23、4/6、4/20、5/11 (残り1回は決定次第告知します)

※月2回程度の開催予定です。日程は変更になる可能性もございます。

定員 20名(先着順)

受講料 ¥15,000(全10回分/会場費、資料代含む)

【使用テキスト】※事前に各自ご購入をお願い致します

『悪霊』(全二冊/江川卓訳・新潮文庫)

ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著・イーグレープ)

【申込方法】Eメール

①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、

お申し込み下さい。

Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp

 

※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用については一切いたしません。

 

会場 大阪市生野区民センター

大阪市生野区勝山北3-13-30   

 JR環状線 桃谷駅改札口より南東へ800m

 

渡辺謙の演技論

 さっきテレビを点けると、NHKテレビで俳優の渡辺謙大河ドラマの「独眼竜政宗」を演じたときの経験を語っていた。要するに、そのドラマを演じているとき彼に分かったのは、伊達政宗という歴史的な人物の一生を見渡しながら、ここはこう演技すべきであると計算しながら演じてはいけない、常に今に生きているように、先の見えない今を生きているように演技すべきであるということだった・・・という話だった。これはわたしが「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いた、ドストエフスキーポリフォニー小説を読むときに気をつけなければいけないことと同じだと思い、少し驚いたのだが、結局、人生あるいは持続とはそういうものなのである。

小林秀雄の社会学批判

 先日、寝転がって、以前読んだことある小林秀雄江藤淳の対談(『歴史について』、文春文庫、1978、pp.9-75)を読み始めたら、わたしが先のブログ、つまり、「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いたことと同じことを小林が述べているので、少し驚いた。以前それを読んだときはわたしに小林の社会学批判の意味が分かっていなかったということが分かった。しかし、小林にベルクソンが分かっていたのなら、彼はドストエフスキーが理解できたはずだ。それができなかったのは、彼がバフチンに出会っていなかったからだ。彼がバフチンに出会っていれば、そして彼にわたしの言う「自尊心の病」が分かっていれば、彼もドストエフスキーが分かり、わたしと同じようなドストエフスキー論を書いただろう。しかし、彼はバフチンに出会わず、自尊心の病も分からなかった。これは傲慢な気持で言うのではなく、論理的にそう言えるのである。

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」

「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」のリンクを張って欲しいというリクエストがありましたので、リンクを張りました。しかし、スマホでこのリンク先を見ようとしても、なぜか、見ることができません。ご覧になりたい方は、パソコンでご覧下さい。(と、書きましたが、パソコンでも読めませんでした。ごめんなさい。しかし、本日、設定を変えたのでパソコンでもスマホでも読めるようになりました。2023年10月4日)

 なお、余談になりますが、この論文を書いたころ、わたしは、ようやく、(ベルクソンが批判していた)カント哲学の無意味さを言わない哲学、デュルケームなどの社会学あるいは社会科学全般、さらにフロイトなどの精神分析学も含む心理学全般、つまり、現在の大学で教えられている文科系の大半の学問の持つ傲慢さ、つまり、わたしのいう「自尊心の病」に気づきました。
 そう気づいたのは、そのような学問に携わる人々は、始めに掲げた論文「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いた、リーザに批判されているアリョーシャのように、人間を「上から」見て、決して、その人の、(ベルクソンのいう)「持続」を見ない、と言うか、見ることができないような学問に従事しているからです。
 そのことは、わたしの周囲の社会学者などを見れば明らかでした。傲慢と言われるのを承知で言えば、彼らは一人残らず傲慢だった。なぜなら、彼らは決してひとりひとりの人間の「持続」を見ない、あるいは見ることができないからです。そして、人間を束(たば)ねて、その集団に理論的な暴力をふるっているのに、自分ではそのことに気づけないからです。そして、自分では立派なことをやっていると誇っているからです。
 彼らは、そのような学問は人間にとって何の役にも立たない、それどころか、害悪しかもたらさない、ということに気づけない。あるいは、気づくと飯の食い上げになるから、気づかないフリをしている。
 だから、結局、そのような社会科学よりは、ともすれば、大学などで何の役にも立たない、下らない馬鹿のやる学問だと批判されることの多い(これはわたしの印象ですが)文学のほうが優れているのです。

 つまり、文学社会学などのように人間を束ねて見ず、人はいかに生きるかを考えさせるだけの、基本的に人間に害悪をもたらさない学問なのです。わたしも含めて下らない文学者が多いことも確かですので、文学が立派な学問だ、とまで言うつもりはない。しかし、少なくとも、文学は人間に害しかもたらさない社会学などよりは、はるかに価値のある学問だとわたしは思っています。

野見山暁治

 年とともに本の読み方が変わってきた。
 本から透けて見える著者の人間を読むようになった。
 下らないやつが書いた本は、いくら巧みに述べられていても、下らない。下らないから、そういう本を書いたやつは下らないと分かる。そして、その本を読むのがイヤになる。
 書評というものがある。よくあんなことができるものだと呆れる。或る本を読んで「下らない」と言えば済むのに、それは言わないで、ああだこうだと言う。だから、その書評を読んだ人間が「面白いのか」と錯覚し、読み、下らないので、腹を立てる。まるで詐欺師だ。
 そういうわけで、最近は同じ著者のものばかり読んでいる。その一人が野見山暁治だ。気が滅入ると、野見山が『みんな忘れた』(平凡社)で書いている水上勉の話を読む。そして、野見山と水上の人間に慰められる。世の中、下らないやつばかりではないのだ。

ジャニー喜多川と黒柳徹子

 昨夜、テレビをつけたら、偶然、市川崑が監督した映画『犬神家の一族』をやっていた。面白いので、ずるずる最後まで見てしまった。わたしはホラー映画や怪談を扱った映画が大好きなのである。
 その『犬神家の一族』をずるずる最後まで見てしまったのは、わたしの好きな女優の島田陽子や『二人の世界』を歌っていたあおい輝彦が出ていたからでもある。
 あおい輝彦と言えば、ジャニー喜多川の犯罪が英国のBBCによって報道される前、ジャニー喜多川が亡くなった頃(だったと思う)、『徹子の部屋』に出ているのを偶然見た。そのとき、あおいが歌ったので、わたしは陶然となったのだが、それはそれとして、不愉快だったのは、黒柳徹子が亡くなったジャニー喜多川を誉めたたえたことである。
 わたしの年代くらいの高齢者の多くは、ジャニー喜多川の犯罪を知っているはずだ。テレビが始まった頃からテレビ界にいる黒柳がそのことを知らないはずがない。ここにもタコツボがあると思い知らされ、わたしは無邪気を装う黒柳を軽蔑するようになった。
 少年の頃、ジャニー喜多川から性被害を受けたあおいは黒柳のジャニー喜多川礼賛を複雑な表情を浮かべて聞いていた(と、わたしは思ったが)、黒柳はそれには気づかなかったようだ。