『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』

 本屋で鹿島茂の『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版、2016)を拾い読みし、次々と変なことが書いてあるので、びっくりし、思わず買ってしまった。
 その変なことのなかでもいちばん変なのは、鹿島が、小林の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という言葉を批判しているところだ。
 鹿島は、その小林の文章について、こう述べている。
 
 これはじつは、小林が「當麻」の中で、世阿弥が美というものをどう考えていたのかという問題提起を行い、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」という世阿弥の言葉を引いた後に出てくる言葉なのだが、その世阿弥の言葉というのは、なんということはない、サンプルの多様性に溺れることなく共通的本質だけを抽出しろといっているのであって、小林の言うようにサンプルだけがあって、共通的特徴すなわち観念なんてものはないなどとは一言もいっていないのである。複数の「美しい『花』があるなら、その複数の「美しい『花』を比較検討することで、「『花』の美しさ」という「花の失せぬところ」、すなわち観念にまで思い至れといっているのである。
 しかも小林は、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」と言いながら、その実、いたるところで「美しい『花』」という実体と「『花』の美しさ」という観念を混同したり意図的にすり替えたりしているのだ。 
 実体と観念の唐突なすり替え、これこそが小林秀雄マジックの特徴であり、文体を変に読みにくくしているのだが、まさにそれが、一部の未熟な文学青年を熱狂させるもととなったのである。(pp.86-87)

 こういう文章を読むと、未熟な文学青年の成れの果てである未熟な文学年寄りであるわたしは、比喩ではなく、老齢のために、本当に腰を抜かしそうになる。
 小林は、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という文章で、ベルクソンが『時間と自由』の中で述べていることを反復しているだけなのである。
 つまり、わたしたちは「美しい『花』」を直観によって「質的」に把握できるだけであって、その「『花』の美しさ」を知性によって「等質的」に分析しようとしても、それは不可能である、というのが小林の言いたいことだ。言い換えると、「『花』の美しさ」というようなものは、知性によって了解できるものではない、というのが小林の、ひいてはベルクソンの言いたいことだ。
 小林秀雄が生涯を通して「ドーダ」とばかりに威張り散らして書いてきたように思うのは、わたしも鹿島と同意見だが、わたしは鹿島とはちがって、死産児の小林が自尊心の病に憑かれたまま威張り散らしてきたのを、ありのままに受け入れようと思う、今日この頃。

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 追記:小林秀雄が死産児である理由については、拙著『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』の「ドストエフスキーの回心」(pp.95-147)を読んで下さい。要するに、小林は死ぬまで「昇りのエレベーター」から降りようとはしなかったのです。このため、「昇りのエレベーター」から降りた、つまり、死産児であることをやめたドストエフスキーが理解できず、キリスト教も理解できなかったのです。(2023/06/12)