インキジノフとダニレフスキイ

 折目博子の短篇小説「ツィゴイネルワイゼン」。娘のゆうこを自殺で亡くした「私」と夫との会話。

「私は生きることが楽しく、あなたと愛し合うことが嬉しく、あなたの赤ちゃんをたくさん生んで、その人たちを上手に育てて、みんなで仲良く暮らそうと思っていたんです。それなのにあなたといったら、結婚早々、生きるのがイヤだ、学問なんかしたのがマチガイだったと、来る日も来る日も後悔する。あなたのことばによると、あなたのしている学問は低級無残なもので、学者もその殆どが低脳の俗物と、口を極めての罵倒でしょ。若い私はびっくり、ガックリしてしまったわ。私が赤ちゃんを生むのも反対、人間は自然に逆らって自然の反対物になることによって文明をつくるンだって。女で自然人である私は、妙な文明人であるあなたの発する猛烈な毒ガスに当って、すぐノイローゼになりました。私は感受性が強いから、自動車の排気ガスを吸ってもすぐ吐気がするくらいですから、家の中でのあなたの憂鬱ガスはこたえたの。私はあなたを尊敬していたから、あなたの言うことはなんでも正しいと思っていたわ。でも、私の中にある自然は、あなたの言うことだけに従っていられなかったわ。私はゆうこを生んで嬉しかった。文明人のあなたは生まれつきのあわれな性格と相まってグズグズ愚痴を言って生きていればいい。私はゆうこと楽しく生きようと思った。あなたと別れたらゆうこが損をするから、あなたはゆうこのお父さんだから、インキジノフのようなあなたを我慢してあげたんです」
「インキジノフ?」
「ええ、陰気な男という意味なの」
 夫は声を立てて笑った。私が胸をドキドキさせて怒っているのに夫は笑う。
「そんな名前の俳優がいたよ。ぼくには似ても似つかぬ」
 言い募っている私の顔をじっと見て、夫が微笑する時、私は自分がそんなに幼稚で滑稽なのかと傷つけられる。
「ああ、解りました。解りました。今、やっと、私にはあなたの限界がわかった。あなたは、頭のいいインテリです。それだけだ。文明の埒(らち)を一歩も出ず、それ以上のことは何もわからぬ人」
「・・・・・・」
「世間の人が愚劣だ、学問は面白くないと、グズグズ言って、人を厭にさせ、私から生きる元気を吸いとり、私の生命を自分の生命の源にして、そしてご自分は結構面白く生きてきた人よ。ダニレフスキイよ。ああ、私はもう怒った。怒ってる」
「ダニレフスキイ?」
「ええ、人のからだにだにのように吸いついて人の生き血を吸い取るの。私がつけてあげたあなたの仇名よ」
 夫は今度は笑わなかった。
「ひどいことを言う」と口の中でつぶやいただけだった。
「インキジノフの発する陰気ガスはひどく人を滅入らせるのよ。それはたしかに死の匂いがするガスよ。公害どころか私は家の中であなたのガスに侵されつづけた。友達が言ったわよ。私の留守にこの家に来ると、まるで墓場のように淋しいって」
 私は拳をかためて夫の胸をさえぎった。
「ああ、何という苦しみだったことでしょう!あなたを愛したい、仲良く暮らしたいと、私は努力してきたわ。でも、駄目!無駄なことだった。だって、ゆうこは死んでしまった。なぜ?なぜ、死ぬのよ。なぜ自殺するのよ!」
 声を高めて言いながら私は途中何度も呼吸困難に喘いだ。息が切れて声が出ないのに、まだ私は叫びつづけた。
「私がもしも、他の人と結婚して子供を生んだら、その子は自殺したでしょうか?私は、もっと平凡な、心のやさしい男の人と暮して、死なない子を持った方が何倍かよかった!子供というものはゆうこみたいに賢くなくてもいい、ただ自殺さえしなければいいンです」
折目博子、「ツィゴイネルワイゼン」、『手のひらの星』所収、講談社、1969、pp.199-200)

 文字通りではないが、わたしも酒席で、作田啓一が語気するどく、自分のやっている学問(社会学)は「低級無残なもので、学者もその殆どが低脳の俗物」である、というのを聞いたことがある。
 その言葉を聞いたわたしは、自分のやっているロシア文学も、まあ似たようなものである。そして、残念なことに、わたし自身が低脳の俗物なのである。と、言おうと思ったが、その場の張りつめた空気に圧倒されて、黙りこんだ。
 しかし、このとき、だから、作田啓一はそのような社会学に文学を取りいれようと思い、このため、ドストエフスキーを研究していたわたしが彼の主宰する研究会に呼ばれたのかもしれない、と思った。結局、作田啓一は、社会学に文学を取りいれることによって、小説家である折目博子の批判を受け入れたのだろう、とも思った。