中沢新一と亀山郁夫(3)

 これまで見てきたように、中沢新一亀山郁夫にモラルがないことは明らかだろう。彼らは『地下室の手記』の主人公と同様、自分の欲望を満たすためなら、どんなことでもするだろう。
 なぜ彼らはそのような人間なのか。それは彼らに宗教がないからだ。ここで私が宗教というのは、何とか教というような宗教ではない。私のいう宗教をもつ人間とは、「カナリアとしてのドストエフスキー論」で述べたように、「いくら何でもこれだけは絶対しないだろう」という信頼感を与えてくれる人間のことだ。日本人の場合、自分は無宗教だと思っている人が多い。それにも拘わらず、「いくら何でもこれだけは絶対しないだろう」という信頼感を与えてくれる人は多い。このため、私たちは電車の中などで安心して眠ることができるし、落とし物をしても持ち主が分かれば戻ってくる。それは宗教に代わる村落共同体の倫理というものが今も日本に存在するからだ。島田裕巳は『宗教はなぜ必要なのか』(集英社インターナショナル、2012、p.143)で、そのような村落共同体の倫理が宗教の役目を果たしているという。島田も言うように、これは山本七平のいう「日本教」のことだ。だから、村落共同体の倫理が日本の宗教なのである。この宗教には、土着のアニミズム儒教、仏教などさまざまな宗教が雑多に混じり合っている。しかし、それが宗教であることに変わりはない。
 現在もその村落共同体の倫理がさまざまなかたちで丸山真男(『日本の思想』)のいう「たこつぼ」の中に生きている。だから、阪神・淡路大震災のときもパニックにならず、また、私が「献血の列」で述べたような胸を打つ出来事がさまざまな場所で起きたのだ。東北大震災のときもそうだった。
 だから、モラルのない中沢や亀山はそのような日本教徒ではないのだ。島田は中沢のことをチベット密教の信者だというが(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』、p.238)、チベット密教が他人を陥れたり嘘をつくことを許しているとは思われない。そんなことをいう島田は宗教学者としては失格だろう。なぜなら、ベルクソンもいうように、宗教というものは人間集団を守るために存在するものであるからだ。中沢のような人間がひとりでもいれば、人間集団における信頼関係は崩壊する。だから、中沢は、チベット密教をかじっているだけだ、と言うべきだ。
 この中沢に対する批判はそのまま亀山にも当てはまる。集団の中に、マトリョーシャのような哀れな少女に共感できない亀山のような人間がいれば、子供を安心して育てることができない。亀山はトラブルに巻き込まれている子供を見ても、そしらぬ顔で通り過ぎるだろう。そのような子供は大人に対して不信感を持つようになるだろう。そして、このような社会などリセットしてしまえばいい、というオウムのような過激な思想を抱くようになるだろう。
 くり返すが、中沢や亀山は「すべてが許されている」と思っている死産児にすぎない。彼らはそのままドストエフスキーの死産児の定義に当てはまる。つまり、土着の倫理を身につけることができないまま、欧米の物真似(中沢のようにチベット密教をかじるのも欧米の真似だ)ばかりしている死産児だ。私見にすぎないが、このような死産児が日本の知識人、とくに文系の知識人の大部分を占める。また、そのような知識人を模倣する大衆も多い。だから、「「日本教」の消滅」で述べたように、私は日本には死産児があふれていると言うのだ。言うまでもないことだが、それはいわゆる知識人とその模倣者のことを指しているのであり、彼ら以外の庶民には今も確固とした倫理観があると思う。その倫理観を毎日朝から晩まで破壊しようとしているのが、テレビや雑誌、新聞やインターネットなどで発言する、右翼や左翼の、あるいは中道の、いわゆる知識人とその模倣者たちだ。このような死産児たちが日本を破滅に導いているのだ。