手のひらの星

 大学に入ったばかりの娘が自殺する。「私」はなぜ娘が死んだのかと考えるうちに、夫との関係に問題があったことに思い当たる。

 「一度、君に言っておこうと考えていたんだが、君の、いかにも世界中でいちばん僕を愛してます、という態度は、実に押しつけがましい」
 私は驚いた。そうだったのか。私が天衣無縫に振舞う態度の中に、夫は押しつけがましさや苦痛を感じていたのだ。彼は控え目なおとなしい人で、私は激しい野人のような人間。
「僕は、僕がいちばん大切なんだ。僕が人を愛するのは、それが僕にとって好都合でそして気持がいいからだ。そして、やはり、君もいちばん愛しているのは自分自身じゃあないかね」
 私は混乱した。彼のことばを正確に理解するより、自分を反省するより先に涙がこぼれてきた。
「じゃあ、私が死んでもあなたは死なない?」
「死なないよ。当たり前じゃあないか。ずいぶん力は落とすだろうけど、また、元気になるさ」
「そうね。あなたは弱く見えても芯(しん)は強いひとだから・・・」
(中略)
 その夜を境にして、私の心は変わっていった。正直な夫が、率直な意見を述べただけなのに、そして彼の愛は変わらないのに、なぜか私にはそれが「拒絶」と感じられたのだった。この過度な反応、いきすぎは私の性格の中にある一つの特徴である。(折目博子、『手のひらの星』、講談社、1969、p.27)

 「心のやさしい人がいいわ」という娘の言葉に「私」は動揺する。それは「私」自身が夫に望むことでもあった。

「お母さん。頭がよいって大したことではないわね?」
「どうして?」
「頭のよい人より、心のやさしい人がいいわ。頭がよくて、心の冷たい人、私、きらい」
「男の人のこと?」
「私は、自分が頭がよいから、そうそう私以上に頭のよい人に出会わないし、それより心のやさしい人がいいわ。偉大な思想は、心情からくる」
 ゆうこは誰かの箴言(しんげん)を口ずさんだ。私は、ゆうこに対し、ゆうこの父親は頭はよいが、あまり心はやさしい人ではないというふうに、彼女に印象づけたのかもしれない。ゆうこがこんなことを言うようになったところを見れば。
(前掲書、p.55)

 こんな私小説を読まなければならなかった夫の作田啓一はつらかっただろうと思う(読めたのだろうか)。わたしはついに作田啓一と、折目博子の話をすることができなかった。
 わたしは自殺した「ゆうこ」と同じ昭和22年生まれだが、折目博子のこの短編集を読んでいると、昭和40年頃の空気を痛いほど感じる。わたしも、わたしの友人の多くも、このゆうこのように、死と隣り合わせに生きていたと思う。ある者はゆうこのように自ら死を選び、ある者はわたしのように死を選ばなかった。この短編集はもっと多くの人に読まれるべきものだと思う。