ユーモア

 桑原武夫が「ものいいについて」(1946年)というエッセイで紹介していることだが、中国人の林語堂が「日本人はユーモアが零点だ」と述べているそうだ。これはたしかにその通りで、中国人ではない私でさえ、いつも身にしみて感じていることだ。
 私は子供の頃から冗談が何よりも好きで、いつも何か冗談を言ってやろうと思いながら暮らしてきたのだが、自分では冗談のつもりで言ったことが誤解され、嘲笑されたり叱られたりするということが何度も何度もあった。泣きたくなるような悲しい思い出が紹介できないほどたくさんある。今も同じだ。このブログで冗談を言って叱られたこともある。真面目なのはいいが、真面目すぎるのも困ったものだ。
 このためかどうかは分からないが、私は子供の時から人物だけではなく、作家を判断するときも、ユーモアが分かるかどうかで判断する癖がある。この採点法が人格的評価や文学的評価とどう結びつくのかは分からない。私が高く評価する人物や作家でつまらない人もいるかもしれない。しかし、ユーモアの分からない人とは付き合う気になれず、ユーモアの分からない作家の書くものを身を入れて読む気にもならない。この点、ポー、ドストエフスキーソルジェニーツィンリルケ、ブロツキー、夏目漱石萩原朔太郎梶井基次郎中島敦深沢七郎田中小実昌安岡章太郎島尾敏雄など、他にも数え切れないほどいるが、こういう人たちはユーモアのよく分かる作家だと思う。ユーモアがよく分かるというのは、明るく楽しい人間だということではなく、人間のもつ限界、つまり、人間が死ぬべき運命にあるということがよく分かるということだ。これは女性作家も同じで、誰とは言わないが、人間の限界を知っている女性作家にはユーモアがある。
 漱石は牛鍋を囲んだ弟子たちが師に遠慮して箸をつけないのを見て、自分が先に箸をつけ、「きみたちはなべ食わないのか」と言ったそうだ。これは漱石の弟子であった内田百けん(漢字表示不可)が紹介しているエピソードだが、こういう漱石漱石のくだらない冗談を心から笑うことができる内田百けんのような人物が世の中に一人でも増えることを私は切に望む。