いやな人には会わない

 いやな人には会わない。いやな人に会うと、必ずグロテスクなことになる。たとえば、わたしはその人に会っている不快さに耐えることができなくなり、アルコールを浴びるように飲み、こちらの精神が崩壊して乱暴狼藉を働くとか、罵声をその人に浴びせるとか・・・と、いうようなことになる。若い頃からそういう失敗(と、いうか、必然というか)を繰り返してきて、あるとき、もう、いやな人には会わないと決めたのである。
 しかし、わたしの孤立した貧しい窮状を見かねて、親切心から、わたしにそういう人に会おうと誘う人もいる。そういうときは、どうするか。会わないのが一番だが、わたしに親切にしてくれるその人に対する義理から、どうしても会わなければならなくなるときがある。
 若いときは、そういう場合、会っても、じっと沈黙を守った。だから、変人だと思われた。それで就職の口を次々に失い続け、ますます貧乏になった。そういうことが長いあいだ続いた。
 しかし、三十過ぎに離人症になり、死にかけ、その病から回復したあとは、いやな人に会うのがどうでもよくなった。つまり、無理をして会わなくてもいいと思うようになった。それで、ますます貧乏になった。しかし、生きていると、どうしても会わなくてはならなくなるときがあるのは変わらず、そういうとき、会うと、必ず、わたしの精神は崩壊し、わたしはますます変人だと思われるようになった。
 わたしはどんな人をいやな人だと思うのだろうか。それはおそらくわたしの自己嫌悪の一種なのであり、わたしの自尊心の病なのである。だから、わたしにはいやな人などいないのだ。わたしはわたしの自尊心の病がいやなのだ。

書かなければならない本当に大切なこと

 微熱があるので何をする気にもならず、しかし、洗濯と掃除だけはしなければならないので、朝のうちにやり終え、あとはうつらうつらしながら、昨日受講生の方からいただいた『共助』(基督教共助会出版部)の「森有正追悼号」(1977年2月号)などの複写を読んですごした。私がこれまで森有正を信頼して生きてきたのが間違いではなかったと確信させてくれる文章をいくつか読むことができた。その受講生の方に感謝する。
 森有正はある人にこういう手紙を書いた。
 「書きたいことは山ほどあります。しかし歴史が終末に入った現在本当に大切なことはそんなに沢山はないでしょう。人類は聖書の予言通りになってきました。・・・人類の『弱さ』は限りなく深いのです。そしてそれが凡ての問題の根源なのです。私の自覚はまだまだ不十分なのです。キリストの十字架にまでこの人間の弱さが行くことを考えるのは恐ろしいことです。」(『共助』、1977年9月号、p.20)
 森有正が言うように、書かなければならない本当に大切なことは沢山ない。
(わたしの四年前の或る日のフェイスブックから引用しました。)
 

赤木ファイルの公開

アイヒマンはどこにもいる。あなたもわたしもアイヒマンである。ひとりのアイヒマンを首縊りの木に吊しても、二人のアイヒマンをこの世界から追放しても、三人のアイヒマンに罵声を浴びせても、あなたやわたしがアイヒマンでなくなるわけではない。もうすぐ赤木ファイルが公開されるらしい。アイヒマンたちよ、あなた方がどんな振る舞いをするのか、じっくり見せてもらおう。そして、アイヒマンであるわたしがどんな風に振る舞うのか、アイヒマンたちよ、見てごらん。

ギター歴

 「なぜギターを弾き始めたのですか」と、昔、よく訊かれた。あまりにも頻繁に尋ねられるのでうんざりして、そういうときは決まったように、「そりゃ、女にもてたかったからですよ」と答えることにしていた。そう言うと、相手は、じっとわたしの眼を見て、うなずいたものである。こいつも相当なスケベなのだな、というようなうなずきかたであった。
 だから、女にもてたかった云々は嘘だった。そんな嘘をついたのは、本当のことを言うと話が長くなるからだった。その長い話をすると、だいたい次のようになる。

 わたしがギターを弾き始めたのに理由はない。わたしは音の出るものが好きだった。だから、ギターを弾き始めた。
 北島三郎の演歌で「風雪流れ旅」というのがあって、その一節に「音の出るもの、何でも好きで」というのがある。子供の頃のわたしはまさにそういう子供だった。記憶に残っているかぎりで言えば、その最初はたしか草笛で、その次が指笛、次が口笛で、これは育ての親だった石屋の伯父さんに叱られてすぐやめた。伯父さんに「口笛を吹いていると蛇が出てくるぞ」と言われてやめた。本当に蛇が出てくるのかどうか分からないが、思わずぞっとしてすぐ吹くのをやめた。このため、今でも口笛を聴くとぞっとする。
 その次がハーモニカで、これは穴がすぐ歯クソでつまるほど猛烈に練習した。しかし、たしか一年足らずで飽きてしまった。わたしの吹いているハーモニカでは半音が出ず、そのため、吹ける曲が限られていたからだ。たしか、当時、宮田ハーモニカという半音の出るハーモニカもあったが、高価で手が出なかった。
 ハーモニカに飽きたわたしは、板切れにテングス線を張って弾いた。その頃、お袋が長い病院生活から帰ってきて、わたしがそういう変なものを弾いているのを見て、たまたま広島から遊びに来ていた甥に笑いながら報告した。なぜ、そんなことをわたしはしたのか。それは多分、両親に連れられて見に行った映画で、誰かがギターを弾いていたからだろうと思う。多分、田端義夫だろう。南の島で捕虜になったあげく船で日本に帰ってきた親父が、田端義夫の「かえり船」を聴いて泣いていたのを覚えている。
 お袋の甥、つまり、わたしの従兄弟はその次の高校の夏休みに、広島からギターをかかえてやってきて、「わしはもういらんけんね」と言って、わたしにギターをくれた。それだけではなく、『古賀政男ギター教則本』というのもくれた。そして小学校二年生のわたしにギターの弾き方を少し教えてくれた。それ以来、わたしは独学でその教則本の最後までやり、小学校五年ぐらいで「湯の町エレジー」が弾けるようになった。夏の夕方など、濡れ縁でギターを弾いていると隣のおじさんなどがやってきて、拍手してくれたものだ。しかし、そのあと、わたしの関心はトランペットに移り、中学・高校とトランペットを吹いていた。それでギターとの縁が切れたかといえば、そうではなく、高校の演奏会ではブラスバンドの仲間とジャズ・バンドを組み、当時のいわゆる「電気ギター」を弾いた。それ以来、ギターをずっと弾いているのである。

川端香男里と伊藤淑子

 近々、ドストエフスキー入門書みたいなものを出すので、贈呈したい人の住所を調べていたら、亡くなっている人が多いので驚いた。浦島太郎になったような気分だ。自分では気がつかなかったが、妻の看病に明け暮れするようになって以来、人交わりをする余裕を失ったようだ。
 川端香男里はわたしのそのドストエフスキー入門書みたいな本の原型ともいうべき論文(「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」)を読んで、賛同する葉書をくれた。ドストエフスキー研究で孤独感を味わっていたわたしはとても励まされた。だから、彼には是非とも今度の本は読んでもらいたかったが、今年の二月に亡くなっていた。
 それと、亡くなっているとは思わないが、消息不明の人がいる。それはベルクソン研究者の伊藤淑子で、わたしのベルクソン論を読んで賛同してくれた。日本にベルクソンを本当に理解している人が少ないのを嘆いていたわたしは、彼女に励まされた。そのドストエフスキー入門書みたいな本でも彼女の意見を引用している。だから、本が出たら送りたいのだが、消息不明なのである。インターネットで調べると、彼女は大阪大学を出て、英知大学で非常勤講師をしていたらしい。しかし、いまや英知大学は潰れてしまって、存在しない。以前、英知大学に勤めていた多田智満子に尋ねたら分かったかもしれないが、多田智満子もいない。

神さんに祈りなはれ

京大天皇事件で有名になった中岡哲郎先生が、子供のとき、友達から、天皇もあれをしやはるんやろか、と友達に聞かれた。姉の本などを覗いて、こっそり女体の構造などを調べていた、科学的精神にあふれていた中岡少年は、「当たり前や」と答えた。すると、その友達は「わ、すごいこといやはる」と、はやしたてたので、怖くなり、泣きながら家に帰った。理由を母親に問いつめられ、じつはこれこれ、と正直に答えると、母親が、神さんに祈りなはれ、と言うので、神棚に向かって祈る。すると、気持がすっとした。自分でもこういうわけのわからんことで気持が落ち着いたのがくやしい、と中岡先生は朝日新聞から出ている「一冊の本」に書かれていた。

(続)誰が菅総理の声を消したのか

本日おこなわれている衆議院の原子力問題調査特別委員会で、東電の現社長は、菅元総理が誰が菅総理の声を消したのかを東電に再調査するよう求めたのに、それを拒否した。