緊急順不同

 もうすぐ定年なので研究室にある本を整理しているということは前に書いたが、昨日も授業のあいまに整理していると、中野重治の本がかなり出てきた。さあ、これをどうするか、と、首をひねりながら、未練がましく撫でさすっていると、三十年前の記憶がよみがえってきた。
 私が中野重治の本を集めはじめたのは、たぶん小松勝助と小島輝正の影響だ。小松勝助は私の神戸外大での指導教官でウクライナ文学の専門家であると同時にエスペランチストだった。ロシア語とロシア文学の教師であったのにも拘わらず、ソ連や米国の大国主義を毛嫌いし、晩年は金日成主体思想に入れあげていた。神戸の地震のあと、兄の世話になっているので心配は無用です、という、明らかに健康を害しているのが明らかな、ぞっとするような字体の手紙が来たが、その後、私が転居したこともあり、いつのまにか、音信不通になってしまった。同じ神戸外大の教師だった小川正巳に聞くと、カトリックの修道女になっている妹さんに最後を看取られて亡くなったということだ。小松勝助は日本共産党から除名処分を受けた一人で、これは小島輝正も同じだ。二人とも新日文同人だった。私はこの二人から中野重治のことを教えてもらったように記憶している。
 小島輝正と中野重治と言えば、中野が小島の記憶違いをただした文章がある。それは何だったかと探していると、あった。『緊急順不同』(三一書房、1977)冒頭の「この標題の意味」というエッセイだ。
 脱線するが、この本にはお買い上げ票というのが挟まっていて、阪神芦屋駅前の宝盛館で1977年の6月6日に買っている。私は30歳だった。これは私が芦屋市平田北町の文化住宅に住んでいた頃買ったものだ。この文化住宅の裏には、神戸大学でロシア語を教えていた宮原克己の甥で、やはり神戸大学科学史を教えていた青木靖三が住んでいた。青木が急死したとき、青木の親友だった中岡哲郎が泣きながら葬儀委員長をした。中岡哲郎も私の神戸外大時代の恩師だ。
 ちなみに、宮原克己とは亡くなるまで親しく交わり、ソ連日本共産党の悪口を言い合った。宮原克己も共産党を除名された一人だ。ということは、中野重治を買ったのは、宮原克己の影響もあるのか。いずれにせよ、この平田北町の文化住宅は先の地震のとき崩壊し、私が見に行ったときは跡形もなかった。死者も出たそうだ。住み続けていたら、私がそうなっていたかもしれない。
 話をもとに戻すと、小島輝正は新日文に書いたエッセイの中で神戸詩人事件などにふれながら、ついでのように、春山行夫は物故しているが、と、書いた。それを読んだ中野重治が、そんなことはない、と、新日文で訂正した。いきなり訂正したのではなく、自分は小島の文章を愛読しているのだが、という枕をふって、訂正したのである。これはきわめて礼儀正しい訂正の仕方だ。これは私が『たうろす』という小島輝正が編集長をやっていた同人誌の編集を手伝っていた頃のことだ。小島は非常に困惑し、すぐ春山行夫に会いに行って謝罪した。そして、しばらくして、『たうろす』に『春山行夫ノート』を連載し、本にした。たしか、そこでも春山に謝罪していたはずである。
 小島輝正は大鳥圭介の孫で今の皇后の叔父にあたる人物だが、育ちが良い分、簡単に人を信用してしまうあやうさがあった。そのことは私も個人的に付き合っていて、しばしば感じたことだった。というようなことは、親子ほどの年の差があるのにも拘わらず、小島輝正に直接言ったことだ。小島は顔をゆがめたが。小島は誰かから春山行夫は亡くなった、と教えられ、信じてしまったのだろう、と思う。
 ところで、中野重治の『緊急順不同』をさらに読んでゆくと、黒々と線を引いてある部分があり、それが「在日朝鮮人の問題にふれて」の中の、横板に雨垂れさんも引用している文章だった。私は横板に雨垂れさんの文章を読んだばかりだったので、偶然の一致に驚いた。
 重要な文章なので、横板に雨垂れさんの文章からコピーさせて頂き、引用しよう。初版の『緊急順不同』では「佐々木俊郎」となっているが、それが横板に雨垂れさんの引用では「佐左木俊郎」になっている。全集に収めるとき編集者が直したのだろう。もちろん「佐左木俊郎」が正しい。

 関東大震災朝鮮人との関係でいえば、ここで私は今東光を引くこともできる。『小説新潮』、1972年9月号、「青葉木菟の欺き」で今は佐左木俊郎のことに触れている。佐左木俊郎を直接知つている人も少なくないにちがいない。今はこう書いている。
「……幸いにして彼はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
 『日本人という奴は、まつたく自分白身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が白警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
 『其奴等は今どうしてる』
 『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」
 一つの事実とともに、佐左木の「近所の女房どもさえ」、確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあつたことが語られている。それは直ちに、佐左木俊郎がまたその状態にあつたということではない。佐左木自身ならば、朝鮮人とまちがわれて日本人が刃物の拷問を受ける不当を不当としただけでなく、朝鮮人朝鮮人だからといつて、それだけで日本人から殺されさいなまれることの不当を不当としたにちがいない。ただ一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた事実はここで語られている。そしてこのことを、 1972年、3年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。日本共産党五十年史は、この点、そこをマイナス方向で代表しているものの一つとして見られるというものであるだろう。その責めは、終局的には日本人民に来る。日本文学にも来る。

中野重治は、ここで、日本共産党五十年史の中の次のような箇所を問題にしているのだ。ここも横板に雨垂れさんの文章からコピーさせて頂く。

 じつは私は、あの『第1章 日本共産党の創立』、その第1項『創立当時の日本の支配的制度』、その書出し7行目でそもそも引つかかつたのだつた。日本の『労働者は植民地同様の低賃金』、こう書いたとき、この筆者たちは、学説のことはさておき、在日朝鮮人労働者のことをてんで肉感的に思い出さなかつたのだろうか。日本人労働者が『植民地同様の低賃金』だつたとして、そのとき朝鮮人労働者は、朝鮮で、また日本で、何的低賃金だつたとこの筆者たちは言いたいのだろうか。だいたい、『日本の支配的体制』が、どれだけの朝鮮人を日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこんでいたかが一行も書いてない。関東大震災で、『何千人という朝鮮人も〔「も」ではない。「も」では付けたり扱いになる。〕虐殺された』のならば、何万人もの朝鮮人が、すでにそれまでに連れこまれていたという事実をそれは語つているだろう。それがないだけでなく、それがからだで感じられていない。

 要するに、ここで中野は、「日本の『労働者は植民地同様の低賃金』」の「植民地同様の」と言うとき、朝鮮人を低く見ている態度が現れているだけではなく、日本人が朝鮮人に対してそれまで行ってきた恥知らずな蛮行を忘れている、いや忘れたふりをしているのだ、と、憤っているのである。
 この、日本人が朝鮮人に対してそれまで行ってきた恥知らずな蛮行を忘れたふりをしているのは、中野が批判している日本共産党だけではない。2010年の今も同じような事態が反復されている。たとえば、金光翔が自身のブログで述べている「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題」という文章は、そのような事態がいまも反復されていることを明らかにしている。
 また、たとえば、TBS「みのもんたの朝ズバッ!」(3月25日放送)での橋下徹の発言(「朝鮮学校は北との関係を断ち切らなければ授業料を無償化すべきではない。」)とか、大阪読売テレビそこまで言って委員会」(4月11日放送)での森喜朗元首相の発言(「朝鮮半島が北と南に割れたのはソ連と米国のせいだ。」)とか。要するに、朝鮮人に関するかぎり、自分たちは何も悪くない、というような愚かな発言がいまもテレビで垂れ流されているのだ。
 このように昔も今も、右も左も庶民も知識人も、日本人の大半が異質な存在を排除する、日本という大きなタコツボに入ったタコの群なのである。また、その大きなタコツボの中に小さなタコツボを作り、そこに仲の良い仲間と住みながら、タコツボ同士で争っている。
 一人になれよ、一人に。
 (中野重治の『緊急順不同』に関連して亀山郁夫の『悪霊』論と日本ロシア文学会を批判しようと思ったけれど、それは次回に。)

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 いま書いた「朝鮮学校は北との関係を断ち切らなければ授業料を無償化すべきではない。」という橋下徹の発言がどうして同時に、「朝鮮人に関するかぎり、自分たちは何も悪くない」という発言になるのか不審に思う人がいるかもしれない。そういう人は、先のブログで金光翔が書いている次の説明を読んでほしい。

拉致問題の解決」に向けて強硬姿勢を主張する論者たちやそれを支持する人々(一部の右派だけではなく、国民の少なくとも半数以上である)の言動、そしてそのような言説に支配されている<空気>は、そのような強硬姿勢が、植民地支配責任とそれをめぐる戦後補償という問題を葬り去り、道徳的・倫理的な引け目や罪悪感を払拭してくれる、という(無意識的な)心情によって支えられている。念のために言っておけば、植民地支配責任の免罪のために拉致問題を利用する人々が問題、ということではない。そもそも日本における拉致問題に関する言説の構図自体が、植民地支配責任の免罪のためにこのような状態になっているのである。

 要するに、拉致のことしか言わない人は、日本人が朝鮮人に行った蛮行を拉致によって覆い隠したいのだ。いわば、拉致が日本の恥部を隠すいちじくの葉っぱだということを知っているから、そうするのだ。家族を北朝鮮に拉致された人たちの悲しみについて述べるのなら、同時に、日本人の蛮行によって蹂躙された朝鮮の人たちの悲しみについても述べなければならない。そして、人の悲しみに優劣をつけてはいけないけれど(というより、許されないことだけれど)、数としては、後者の方が圧倒的に多いのだ。