ギター歴

 「なぜギターを弾き始めたのですか」と、昔、よく訊かれた。あまりにも頻繁に尋ねられるのでうんざりして、そういうときは決まったように、「そりゃ、女にもてたかったからですよ」と答えることにしていた。そう言うと、相手は、じっとわたしの眼を見て、うなずいたものである。こいつも相当なスケベなのだな、というようなうなずきかたであった。
 だから、女にもてたかった云々は嘘だった。そんな嘘をついたのは、本当のことを言うと話が長くなるからだった。その長い話をすると、だいたい次のようになる。

 わたしがギターを弾き始めたのに理由はない。わたしは音の出るものが好きだった。だから、ギターを弾き始めた。
 北島三郎の演歌で「風雪流れ旅」というのがあって、その一節に「音の出るもの、何でも好きで」というのがある。子供の頃のわたしはまさにそういう子供だった。記憶に残っているかぎりで言えば、その最初はたしか草笛で、その次が指笛、次が口笛で、これは育ての親だった石屋の伯父さんに叱られてすぐやめた。伯父さんに「口笛を吹いていると蛇が出てくるぞ」と言われてやめた。本当に蛇が出てくるのかどうか分からないが、思わずぞっとしてすぐ吹くのをやめた。このため、今でも口笛を聴くとぞっとする。
 その次がハーモニカで、これは穴がすぐ歯クソでつまるほど猛烈に練習した。しかし、たしか一年足らずで飽きてしまった。わたしの吹いているハーモニカでは半音が出ず、そのため、吹ける曲が限られていたからだ。たしか、当時、宮田ハーモニカという半音の出るハーモニカもあったが、高価で手が出なかった。
 ハーモニカに飽きたわたしは、板切れにテングス線を張って弾いた。その頃、お袋が長い病院生活から帰ってきて、わたしがそういう変なものを弾いているのを見て、たまたま広島から遊びに来ていた甥に笑いながら報告した。なぜ、そんなことをわたしはしたのか。それは多分、両親に連れられて見に行った映画で、誰かがギターを弾いていたからだろうと思う。多分、田端義夫だろう。南の島で捕虜になったあげく船で日本に帰ってきた親父が、田端義夫の「かえり船」を聴いて泣いていたのを覚えている。
 お袋の甥、つまり、わたしの従兄弟はその次の高校の夏休みに、広島からギターをかかえてやってきて、「わしはもういらんけんね」と言って、わたしにギターをくれた。それだけではなく、『古賀政男ギター教則本』というのもくれた。そして小学校二年生のわたしにギターの弾き方を少し教えてくれた。それ以来、わたしは独学でその教則本の最後までやり、小学校五年ぐらいで「湯の町エレジー」が弾けるようになった。夏の夕方など、濡れ縁でギターを弾いていると隣のおじさんなどがやってきて、拍手してくれたものだ。しかし、そのあと、わたしの関心はトランペットに移り、中学・高校とトランペットを吹いていた。それでギターとの縁が切れたかといえば、そうではなく、高校の演奏会ではブラスバンドの仲間とジャズ・バンドを組み、当時のいわゆる「電気ギター」を弾いた。それ以来、ギターをずっと弾いているのである。