松本人志氏がスキャンダルを起こして週刊誌で叩かれている。わたしはそのこと自体にはあまり興味を覚えない。漫才師にモラルを求めるのは、魚屋に肉を売れと言うようなものだ。しかし、あることについて不愉快になった。
それは、youtubeである人が松本人志のスキャンダルを伝えながら、「わたしは、もともとダウンタウンの漫才が嫌いだった。その暴力的なところとか、人を馬鹿にしたようなところとか・・・」と述べていたことだ。
わたしはダウンタウンの漫才が好きだ。古くは、がたろとかチャンバラトリオとか・・・あと名前を忘れたので省略するが、だいたい大阪の泥臭い漫才が好きだった。ダウンタウンはその流れを汲む漫才だ。一方、東京の漫才のほとんどは上品すぎて、聞くと、背中を冷たい風が吹く。けけ、あほか、とオダサクみたいに言いたくなる。
ダウンタウンの良いところは、尼崎のあの何とも言えん下品で貧相な臭いのするところだ。社会からとり残された人々が放つ、何とも言えんあの臭いだ。下品そのものだ。それが嫌いだと。アホか。お前さんはお上品でよろしいな。
大阪講座「ドストエフスキーを読む」の開講案内(最新版)
大阪で講座「ドストエフスキーを読む」を開講します。
前回に引き続き『悪霊』を読みながら、ドストエフスキーの持つ唯一無二の魅力を味わい、生きることの意味を問うていきます。
講師 萩原俊治 (大阪府立大学名誉教授)
時間 14:30〜16:00
日程 2024年 1月6日(土)開講
(全10回・土曜日開催)
講座日: 1/6、1/20、2/10、2/24、3/9、3/23、4/6、4/20、5/11、6/1
※月2回程度の開催予定です。日程は変更になる可能性もございます。
定員 20名(先着順)
受講料 ¥15,000(全10回分/会場費、資料代含む)
【使用テキスト】※事前に各自ご購入をお願い致します
『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著・イーグレープ)
【申込方法】Eメール
①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、
お申し込み下さい。
Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp
※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用については一切いたしません。
奈良で「ドストエフスキーとバフチン」の講座を開きます
東大寺そばの日本庭園が美しいカフェでお茶菓子をいただきながら、ドストエフスキー作品(今回は『悪霊』)を読み深めていく講座です。ロシアの思想家バフチンの「ポリフォニー論」による解説とドストエフスキーの思想的・政治的・文学的観点について述べながら、生きることの意味を問うていきます。
講師 萩原俊治(大阪府立大学名誉教授)
定員: 15名(先着順)
受講料: 15000円(資料代込)
開講日: 2024年 1月~5月
(毎月第1・第3月曜日) 全10回
時間: 15時~16時30分
※1月のみ第2・第4月曜日です(1/8・1/22)
前・後期合わせて年間20回の講座です。
申込方法:Eメール
①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、下記へお申し込み下さい。
Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp
※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用は一切いたしません。
※カフェ開催のため、お茶菓子代500円(税込)が各自ご負担となります。飲食物の持ち込みはご遠慮下さい。
【使用テキスト】※各自で事前にご購入下さい。
『ドストエフスキーの詩学』(ミハイル・バフチン著、望月哲男/鈴木淳一訳・ちくま学芸文庫)
『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著、イーグレープ)
場所:オレンジカフェ すいもん
(社会福祉法人 晃宝会)
近鉄奈良駅より徒歩15分
大阪講座「ドストエフスキーを読む」の開講案内
大阪で講座「ドストエフスキーを読む」を開講します。
前回に引き続き『悪霊』を読みながら、ドストエフスキーの持つ唯一無二の魅力を味わい、生きることの意味を問うていきます。
講師 萩原俊治 (大阪府立大学名誉教授)
時間 14:30〜16:00
日程 2024年 1月6日(土)開講
(全10回・土曜日開催)
講座日: 1/6、1/20、2/10、2/24、3/9、3/23、4/6、4/20、5/11 (残り1回は決定次第告知します)
※月2回程度の開催予定です。日程は変更になる可能性もございます。
定員 20名(先着順)
受講料 ¥15,000(全10回分/会場費、資料代含む)
【使用テキスト】※事前に各自ご購入をお願い致します
『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著・イーグレープ)
【申込方法】Eメール
①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、
お申し込み下さい。
Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp
※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用については一切いたしません。
渡辺謙の演技論
さっきテレビを点けると、NHKテレビで俳優の渡辺謙が大河ドラマの「独眼竜政宗」を演じたときの経験を語っていた。要するに、そのドラマを演じているとき彼に分かったのは、伊達政宗という歴史的な人物の一生を見渡しながら、ここはこう演技すべきであると計算しながら演じてはいけない、常に今に生きているように、先の見えない今を生きているように演技すべきであるということだった・・・という話だった。これはわたしが「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いた、ドストエフスキーのポリフォニー小説を読むときに気をつけなければいけないことと同じだと思い、少し驚いたのだが、結局、人生あるいは持続とはそういうものなのである。
小林秀雄の社会学批判
先日、寝転がって、以前読んだことある小林秀雄と江藤淳の対談(『歴史について』、文春文庫、1978、pp.9-75)を読み始めたら、わたしが先のブログ、つまり、「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いたことと同じことを小林が述べているので、少し驚いた。以前それを読んだときはわたしに小林の社会学批判の意味が分かっていなかったということが分かった。しかし、小林にベルクソンが分かっていたのなら、彼はドストエフスキーが理解できたはずだ。それができなかったのは、彼がバフチンに出会っていなかったからだ。彼がバフチンに出会っていれば、そして彼にわたしの言う「自尊心の病」が分かっていれば、彼もドストエフスキーが分かり、わたしと同じようなドストエフスキー論を書いただろう。しかし、彼はバフチンに出会わず、自尊心の病も分からなかった。これは傲慢な気持で言うのではなく、論理的にそう言えるのである。
「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」
「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」のリンクを張って欲しいというリクエストがありましたので、リンクを張りました。しかし、スマホでこのリンク先を見ようとしても、なぜか、見ることができません。ご覧になりたい方は、パソコンでご覧下さい。(と、書きましたが、パソコンでも読めませんでした。ごめんなさい。しかし、本日、設定を変えたのでパソコンでもスマホでも読めるようになりました。2023年10月4日)
なお、余談になりますが、この論文を書いたころ、わたしは、ようやく、(ベルクソンが批判していた)カント哲学の無意味さを言わない哲学、デュルケームなどの社会学あるいは社会科学全般、さらにフロイトなどの精神分析学も含む心理学全般、つまり、現在の大学で教えられている文科系の大半の学問の持つ傲慢さ、つまり、わたしのいう「自尊心の病」に気づきました。
そう気づいたのは、そのような学問に携わる人々は、始めに掲げた論文「ドストエフスキーの壺の壺――シニフィエはどこにもない」で書いた、リーザに批判されているアリョーシャのように、人間を「上から」見て、決して、その人の、(ベルクソンのいう)「持続」を見ない、と言うか、見ることができないような学問に従事しているからです。
そのことは、わたしの周囲の社会学者などを見れば明らかでした。傲慢と言われるのを承知で言えば、彼らは一人残らず傲慢だった。なぜなら、彼らは決してひとりひとりの人間の「持続」を見ない、あるいは見ることができないからです。そして、人間を束(たば)ねて、その集団に理論的な暴力をふるっているのに、自分ではそのことに気づけないからです。そして、自分では立派なことをやっていると誇っているからです。
彼らは、そのような学問は人間にとって何の役にも立たない、それどころか、害悪しかもたらさない、ということに気づけない。あるいは、気づくと飯の食い上げになるから、気づかないフリをしている。
だから、結局、そのような社会科学よりは、ともすれば、大学などで何の役にも立たない、下らない馬鹿のやる学問だと批判されることの多い(これはわたしの印象ですが)文学のほうが優れているのです。
つまり、文学は社会学などのように人間を束ねて見ず、人はいかに生きるかを考えさせるだけの、基本的に人間に害悪をもたらさない学問なのです。わたしも含めて下らない文学者が多いことも確かですので、文学が立派な学問だ、とまで言うつもりはない。しかし、少なくとも、文学は人間に害しかもたらさない社会学などよりは、はるかに価値のある学問だとわたしは思っています。