年とともに本の読み方が変わってきた。
本から透けて見える著者の人間を読むようになった。
下らないやつが書いた本は、いくら巧みに述べられていても、下らない。下らないから、そういう本を書いたやつは下らないと分かる。そして、その本を読むのがイヤになる。
書評というものがある。よくあんなことができるものだと呆れる。或る本を読んで「下らない」と言えば済むのに、それは言わないで、ああだこうだと言う。だから、その書評を読んだ人間が「面白いのか」と錯覚し、読み、下らないので、腹を立てる。まるで詐欺師だ。
そういうわけで、最近は同じ著者のものばかり読んでいる。その一人が野見山暁治だ。気が滅入ると、野見山が『みんな忘れた』(平凡社)で書いている水上勉の話を読む。そして、野見山と水上の人間に慰められる。世の中、下らないやつばかりではないのだ。
ジャニー喜多川と黒柳徹子
昨夜、テレビをつけたら、偶然、市川崑が監督した映画『犬神家の一族』をやっていた。面白いので、ずるずる最後まで見てしまった。わたしはホラー映画や怪談を扱った映画が大好きなのである。
その『犬神家の一族』をずるずる最後まで見てしまったのは、わたしの好きな女優の島田陽子や『二人の世界』を歌っていたあおい輝彦が出ていたからでもある。
あおい輝彦と言えば、ジャニー喜多川の犯罪が英国のBBCによって報道される前、ジャニー喜多川が亡くなった頃(だったと思う)、『徹子の部屋』に出ているのを偶然見た。そのとき、あおいが歌ったので、わたしは陶然となったのだが、それはそれとして、不愉快だったのは、黒柳徹子が亡くなったジャニー喜多川を誉めたたえたことである。
わたしの年代くらいの高齢者の多くは、ジャニー喜多川の犯罪を知っているはずだ。テレビが始まった頃からテレビ界にいる黒柳がそのことを知らないはずがない。ここにもタコツボがあると思い知らされ、わたしは無邪気を装う黒柳を軽蔑するようになった。
少年の頃、ジャニー喜多川から性被害を受けたあおいは黒柳のジャニー喜多川礼賛を複雑な表情を浮かべて聞いていた(と、わたしは思ったが)、黒柳はそれには気づかなかったようだ。
叫びとささやき
ツタヤでベルイマンの『叫びとささやき』を借りてきて、初めて見た。わたしが学生の頃、評判になった映画だった。学生の頃に見ても、何も分からなかっただろうと思う。自尊心の病に憑かれた人間に、この映画は分からない。彼らに愛は分からない。彼らは自分の生きる世界をすべて地獄に変えてしまう。
『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』
本屋で鹿島茂の『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版、2016)を拾い読みし、次々と変なことが書いてあるので、びっくりし、思わず買ってしまった。
その変なことのなかでもいちばん変なのは、鹿島が、小林の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という言葉を批判しているところだ。
鹿島は、その小林の文章について、こう述べている。
これはじつは、小林が「當麻」の中で、世阿弥が美というものをどう考えていたのかという問題提起を行い、「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」という世阿弥の言葉を引いた後に出てくる言葉なのだが、その世阿弥の言葉というのは、なんということはない、サンプルの多様性に溺れることなく共通的本質だけを抽出しろといっているのであって、小林の言うようにサンプルだけがあって、共通的特徴すなわち観念なんてものはないなどとは一言もいっていないのである。複数の「美しい『花』があるなら、その複数の「美しい『花』を比較検討することで、「『花』の美しさ」という「花の失せぬところ」、すなわち観念にまで思い至れといっているのである。
しかも小林は、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」と言いながら、その実、いたるところで「美しい『花』」という実体と「『花』の美しさ」という観念を混同したり意図的にすり替えたりしているのだ。
実体と観念の唐突なすり替え、これこそが小林秀雄マジックの特徴であり、文体を変に読みにくくしているのだが、まさにそれが、一部の未熟な文学青年を熱狂させるもととなったのである。(pp.86-87)
こういう文章を読むと、未熟な文学青年の成れの果てである未熟な文学年寄りであるわたしは、比喩ではなく、老齢のために、本当に腰を抜かしそうになる。
小林は、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という文章で、ベルクソンが『時間と自由』の中で述べていることを反復しているだけなのである。
つまり、わたしたちは「美しい『花』」を直観によって「質的」に把握できるだけであって、その「『花』の美しさ」を知性によって「等質的」に分析しようとしても、それは不可能である、というのが小林の言いたいことだ。言い換えると、「『花』の美しさ」というようなものは、知性によって了解できるものではない、というのが小林の、ひいてはベルクソンの言いたいことだ。
小林秀雄が生涯を通して「ドーダ」とばかりに威張り散らして書いてきたように思うのは、わたしも鹿島と同意見だが、わたしは鹿島とはちがって、死産児の小林が自尊心の病に憑かれたまま威張り散らしてきたのを、ありのままに受け入れようと思う、今日この頃。
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追記:小林秀雄が死産児である理由については、拙著『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』の「ドストエフスキーの回心」(pp.95-147)を読んで下さい。要するに、小林は死ぬまで「昇りのエレベーター」から降りようとはしなかったのです。このため、「昇りのエレベーター」から降りた、つまり、死産児であることをやめたドストエフスキーが理解できず、キリスト教も理解できなかったのです。(2023/06/12)
講座・ドストエフスキーを読む
ドストエフスキーの小説はなぜこんなに面白いのか。
思想的・政治的・文学的観点による説明もいれながら、ドストエフスキー読書体験が持つ唯一無二の魅力を味わい、生きることの意味を問うていきます
講師 萩原俊治 (大阪府立大学名誉教授)
時間 14:30〜16:00
日程: 2023年 7月15日(土)開講
(全10回・土曜日開催)
講座日(決定分):7/15、7/29、8/12、8/26、9/23、9/30、10/21
※残り3回は決定次第告知します。
※月2回程度の開催予定です。日程は変更になる可能性もございます。
定員 40名(先着順)
受講料 ¥15,000(全10回分/会場費、資料代含む)
使用テキスト
②『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著・イーグレープ)
※事前に各自ご購入をお願い致します
*申込方法 Eメール
①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、
下記へお申し込み下さい。
Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp
※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用については一切いたしません。
*会場 大阪市立港区民センター
Osaka Metro中央線、JR大阪環状線「弁天町」駅 徒歩7分
講座・ドストエフスキーとバフチン
ロシアの思想家バフチンの「ポリフォニー論」による解説とドストエフスキーの思想的・政治的・文学的観点について述べながら、生きることの意味を問うていきます
東大寺そばの日本庭園が美しいカフェでお茶菓子をいただきながらの講座です
講師 萩原俊治(大阪府立大学名誉教授)
定員: 15名(先着順)
受講料: 15000円(資料代込)
開講日: 2023年 7月~11月
(毎月第1・第3月曜日) 全10回
時間: 15時~16時30分
申込方法:Eメール
①氏名②電話番号③郵便番号・住所をご記入の上、下記へお申し込み下さい。
Eメール:chinden-donburago430@outlook.jp
※お申込みの際の個人情報は、本講座の事務連絡および案内にのみ使用いたします。利用目的以外の使用については一切いたしません。
※カフェ開催のため、お茶菓子代500円(税込)が各自ご負担となります。飲食物の持ち込みはご遠慮下さい。
使用テキスト:
『ドストエフスキーの詩学』(ミハイル・バフチン著、望月哲男/鈴木淳一訳・ちくま学芸文庫)
『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』(萩原俊治著、イーグレープ)
※テキストは各自で事前にご購入下さい。
場所:オレンジカフェ すいもん
(社会福祉法人 晃宝会)
近鉄奈良駅より徒歩15分