撫順の奇蹟

 朝日の昨日の夕刊(撫順の奇蹟.pdf 直)を見て、カミさんと大阪市港区の弁天町市民学習センターに行く。「撫順の奇蹟は「今」ここに」(13:30-16:30)。ほとんどが「前期高齢者」と「後期高齢者」で、若い人はちらほらいるだけだった。参加者は50ー60名ぐらいか。朝日と毎日で宣伝したわりにはとても少ない。第一部では憲兵だった故西口政一さんと故島津酉二良さんの映像と資料を紹介。第二部では須子達也さんのお話(20分)と飛び入りの、将校だった「森?さん」(氏名がよく聞き取れなかった)のお話。「森?さん」の話には心を打たれた。「自分はただ命令していただけで、じっさいには中国人を殺さなかったが、同罪だ」。第二部のあと、フロアーからの発言が多数あった。皆さん、イデオロギー的にならないよう、慎重に言葉を選んで発言されていたのが印象的だった。時間が合えばこれからも「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」に出たいと思う。じつに有意義な集まりだった。若い人の参加が少なかったのが残念だった。しかし、このような話を若い人に無理矢理聞かせても反発を招くだけだろう。このような戦争体験者の経験を無理矢理聞かせるより先に、個人の中に自由と責任の主体を育てる教育が必要なのだろう。そうすれば、若い人々が愚かな排外主義者になる芽をつむことができる。では、個人の中に自由と責任の主体を育てるにはどうすればよいのか。そのためにはまず、森有正(「「ことば」について」)が言うように、理性的かつ明晰な文章が書けるよう若者を訓練しなければならない。要するに「文は人なり」。理性的かつ明晰な文章が書ける者とは、理性的かつ明晰な精神の持ち主なのである。このような精神に他者への抑圧と無責任が入り込む余地はない。また、このような精神にとって日本的「たこつぼ」は耐えられない。なぜなら日本的「たこつぼ」とは、「たこつぼ」を批判する異分子を排除し、「たこつぼ」内の仲間がやることであれば何でも許す、反理性的な朦朧とした精神を護持する集団であるからだ。
 現在の日本ロシア文学会もそんな「たこつぼ」のひとつだ。なぜなら、日本ロシア文学会は、亀山郁夫の悪い冗談にすぎないドストエフスキー論と、翻訳ではなく譫言(うわごと)にすぎないドストエフスキー作品の翻訳を容認しているからだ。日本ロシア文学会のメンバーの多くは亀山郁夫ドストエフスキーをめぐる仕事が悪そのもの(金銭に魂を売るような仕事)であることを知っているはずだ。ちょうど、将校であった「森?さん」が兵隊たちによる中国人の惨殺を人間として許されない行為であることを知っていたのと同様に、知っているはずだ。だから、「森?さん」が自分のことを「同罪だ」と言うのと同様、亀山の行為を黙認している日本ロシア文学会のメンバーも亀山と同罪なのだ。