みずず書房からの返信

 亀山郁夫の『悪霊』論を出版したことに対して抗議のメールを送ると、みすず書房からすぐさま丁重な、しかし儀礼的なメールが来た。みすず書房に了解をとっていないので、そのメールを引用するわけにはゆかない。従って、大意を紹介するだけにすれば、社内で十分議論して出版した本なので絶版・回収はできない、という内容のメールだった。私はがっかりし、それ以上抗議する意欲を失った。私の抗議の眼目は、みすず書房が出版社として倫理的責任を果たしていないという点だったのに、それに何も答えていないのだ。
 なぜ、みすず書房は亀山のその『悪霊』論を複数のドストエフスキー研究者に査読に回し、彼らの意見を参考にしなかったのか。それは出版社として当然の義務ではないのか。誰が読んでも淫猥で奇怪な議論が展開されていることが明らかな亀山の『悪霊』論を、高校生向けの「理想の教室」シリーズとして出版することに、みすず書房は何の危惧も抱かなかったのだろうか。出版前、あるいは出版後、社内で議論にならなかったのか。みすず書房も落ちたものである。
 私の中ではみすず書房岩波書店筑摩書房などとともに、日本の出版文化をになう中心的な存在だ。文科系の研究者であれば、自分もいつかそのような出版社から論文を出版できればと誰もが夢見るような出版社であるはずだ。そのみすず書房がこのていたらくなのだ。私は日本の出版文化が文字通り芯のところで腐っていると感じざるを得なかった。
 その直後、このような私の危機意識をかきたてるような出来事が続けて起きる。それは中村健之介による『永遠のドストエフスキー』(中公新書)の出版だ。出版は亀山の『悪霊』論の一年前だが、私は亀山の『悪霊』論を読んだ後で中村のこの本の存在を知った。これは書店で立ち読みし、不快になったので、すぐ棚に戻した。たしか亀山が朝日新聞のコラムで絶賛していたはずだが、私は心臓がドキドキして読むことができなかった。ざっと見ただけだが、ひどい内容だった。
 ところが、困ったことに、日本ロシア文学会からその本の書評を依頼する旨のメールが舞い込んだ。私はその本を買っていなかったし買うつもりもなかったので、日本ロシア文学会から送ってもらい、覚悟を決めてきちんと読んだ。悪口を言うのは不毛だ。下らない本なら無視すればいいのだ。書評を引き受けるからには、良い点があれば、そこだけを論じようと思ったのだ。そう思ったのは、私は中村健之介に好意を持っていたからだ。あるとき、私は中村健之介に会い、詳しく言うことはできないが、お互いよく似た境遇で育ったと分かり、「おお」と驚き、肝胆相照らし(と私が思っただけかもしれないが)、一夜酒を酌み交わしたことがある。年は違うが真の友になれるかもしれないと思った。しかし、そのドストエフスキー論はやはりひどい内容だった。とくに前半部が正気とは言えない内容だった。このことは拙稿「ドストエフスキーの壺の壺」(既出)にも書いたが、もう少し詳しく書こう。
 今では身体がついてゆかないので止めているが、当時、私はすでに十年以上、不登校や引きこもりの子供をもつ親の会を大阪で開いていた。このため、さまざまな原因のために不登校や引きこもりになる子供を知っていた。私の子供がそうであったように、残酷ないじめによって不登校になる子供が数としてはいちばん多かったが、中には、学習障害自閉症のためにそうなる子供もいた。そのような子供をもつ親御さんたちは無知な人々の陰口に苦しんでいた。思い詰めて、死へと向かう人も多かったに違いない。「親の育て方が悪い」「甘やかしすぎだ」「夫婦関係が悪いんだろう」云々、云々。しかし、学習障害自閉症は先天的な脳の障害に過ぎないのであり、親の責任ではない。そんなことはずっと以前から常識になっていたことだ。
 ところが、中村健之介は、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公を、自閉症の一種である「高機能自閉症」患者と見立て、だから「「いじめ」に甘美な快感を覚える」(p.100)と述べていたのだ。言うまでもないことだが、自閉症においてはコミュニケーション不全が顕著であり、それは相手をいじめるということとは違う。知的能力が発達した高機能自閉症患者においても同じことだ。要するに、中村は自閉症に無知なまま、自閉症患者を罵倒しているのだ。自閉症について知りたければ、ずいぶん昔の映画だが、高機能自閉症患者が主人公の「レインマン」という映画を見れば分かることだし、図書館に行って調べればすぐ分かることだ。中村はその手間を省いている。ちなみに、私は「物語はなぜ暴力になるのか」という紀要論文で、上野千鶴子による「物語の暴力」の例として、彼女の自閉症論を批判したことがある(その紀要論文はCiNiiからダウンロードすることができる)。
 中村の議論は、一事が万事そういう調子で、ドストエフスキーの小説の登場人物を精神障害者に見立てて議論をすすめてゆく。さらに、中村はドストエフスキー自身も「空想虚言者」(p.22)だと断定し、さらに、おそらく中村の師であった寺田透と何か確執があったらしい森有正をも「空想虚言者」(p.27)と断定している。中村によれば、ドストエフスキー森有正も嘘をつくという障害を持っている精神障害者なのである。私は呆れかえった。
 私も渡辺一夫の弟子であった小島輝正から森有正の悪口を聞いたことがあるが、それは渡辺と森との確執のためであり、森有正の本当の姿を伝えるものではないことは明らかだ。森の本当の姿はその著作の中に現れている。中村健之介は森のドストエフスキー論を読んでいないのだろうか。読んでも理解できないのだろうか。
 結局、私は書評を放棄する旨、日本ロシア文学会に伝え、その理由として、上野千鶴子を批判した拙稿を送付した。さらに、中村のドストエフスキー論は自閉症患者と自閉症患者をもつ家族を苦しめるだけだ、日本ロシア文学会を通じて、出版元の中央公論社に、即刻、絶版・回収するよう通告すべきである、と伝えた。私が個人で抗議するより、日本ロシア文学会を通じて抗議する方が有効だろうと思ったからだ。
 で、これで一件落着、と思って、もう中村の本のことは忘れていたある日、ほとんど行くことのない書店に行き、書棚に中村のその本を見つけ、腰を抜かすほど驚いた。腰を抜かすのは二回目だ。そこで、あわてて、アマゾンの書評欄に批判を書き込んだ。日本ロシア文学会は中央公論社に私の言葉をちゃんと伝えてくれたのだろうか。中村の本の内容が常識にならないことを祈るばかりだ。
 この事件で私は日本の出版社のひどい状況をさらに思い知ることになった。中央公論社は中村のドストエフスキー論を、何のチェックもなく、読者に丸投げしているだけだ。こんなトンデモ本精神科医ドストエフスキー研究者の査読によって、ただちに没になったはずなのである。
 さて、私は自分の専門領域であるドストエフスキー研究で、いくら何でももうこのようにひどい出版物にはお目にかからないだろうと思っていた。しかし、それは甘かった。超弩級トンデモ本が出現したのだ。それが亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』だ。