子供だまし

 いやー、驚きましたがな。朝飯を食べてたら婆さんがね、思いつめた顔して、
「わて、あんたに隠してたことあるねん」
「ぷほー、な、なんや」
「わ、ばばちいな、ご飯つぶ、まき散らかさんといて」
「何や、はよ言え」
「あのな、これは前々からのことやけど、わて、ずうっと、隠してたんよ。あんたが怒る思て」
「・・・」
「あんた、前もロシア文学会あてに手紙をようけ出してましたな。わても封筒貼り手伝いましたがな」
「おお、そういうこと、あったな。亀のことで会長、副会長、理事連中、他の誰それみんなに文句言うたんや。出るとこ出て、亀と話させてもらおか、いうてな。亀は怖がって逃げたけどな。今頃、どぶ池で息ひそめとるやろ」
「そいでな・・・」
「何や、じれったいな。みそ汁、冷めてまうやないか」
「あのな・・・」
「何や」
「ほら、これ」
「これ何や」
「前から朝日新聞さん、こういうこと何回もしてたんよ。亀はんの肩持ってな。朝日にお友達でもおられるんやろか。でも、わて、そういう新聞、ぜんぶ隠してきたんよ。あんたが怒る思て。でもな、これはもう隠してたらあかん思て。これ、ひどすぎるんとちゃいます。大人の場合、亀はんに騙される方も悪い・・・そやけどな、今回は、相手が子供でっせ。そんなん騙したらあきまへんわ。なんぼアホなわてでも『罪と罰』ぐらい分かります、亀はんの言うてること、これぜーんぶ嘘でっせ。な、そうでっしゃろ、あんた。それに、この吉岡秀子たらいう新聞記者のわざとらしい文章は何でんねん。ほんま、きしょくわるい」
「門前の婆さんやな」
「何でんねん、それは」
「門前の婆さん習わぬ罪と罰を読む、いうやつや」
 
 てなことがありましてな。昨日の朝日の朝刊を婆さんがこっそり隠してました。新聞がどこに行ったか、私は探していましたが、そういうことでしたか。これまでときどき切り抜きがあったりして、婆さんに「これ何や」と言ったら、「あ、料理の記事」とか言うてました。あれ亀関係の記事だったんですな。
 婆さんの隠していた記事はこれです。クリックしたら見ることができます。
 子供だまし.pdf 直 
 まあ、ひどいな。ロシア帝国に死刑がなかったというのは常識です。キリスト教信仰の厚かった女帝エリザヴェータ以来のことです。なぜ死刑がないのか。そりゃ、キリスト教信仰では「悔い改め」ということが重要視されるからですな。殺してしまっては、悔い改めさせることもできませんからな。こういうのは今の日本とはえらい違います。残酷な犯罪を犯した者には、みなさん「死刑だ、死刑だ」と言って殺してしまいますな。犯罪者に悔い改めるヒマも与えません。
 こういうのは『カラマーゾフの兄弟』にも出てくる話で・・・ああ、そうそう、授業で配布した資料がありますので、それを次に載せます。クリックしてください(授業で使っている『カラマーゾフの兄弟』は原卓也訳・新潮文庫で、文字が大きくなった平成16年改版のもの。それ以前の版とはページ番号が違うので注意)。
 【講義の補足と解答例】現代文学思想A(2009)教材8補遺(7月29日配布).pdf 直
 ラスコーリニコフの刑が減じられたのは、彼がそれまでさまざまな善行を重ねていたからに過ぎません。そんなこと、うちの婆さんみたいなアホ(愛情表現ですので誤解なきよう)でも分かります。「生きろ!」だなんて。まあ取って付けたような理屈をこねて、子供をたぶらかしてはいけません。嘘もここに極まれりですな。その子供はあとで亀山先生に騙されたと分かるでしょうな。え?騙されたとは思わないだろうって?そういう人はドストエフスキーに縁がないのです。

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 この吉岡秀子という記者は『罪と罰』を読んだことがあるのだろうか。
 彼女はなぜ朝日新聞の入社試験に合格できたのか。こんなお粗末な文章を書くようでは合格できないはずだ。それとも朝日新聞のレベルが大きく低下したのか。
 童話というのは幼い子供が読んだり、大人から読み聞かされるような子供向けの話のことだろう。『罪と罰』が童話でないことは明らかだ。比喩として『罪と罰』を童話と言うためには、ちゃんとした説明がなければならない。しかし、その説明はどこにもない。あるのは混沌とした文章だけだ。
 亀山によれば、童話である『罪と罰』の「悪の主人公」に読者が一体化することで、読者は初めて善悪とは何かと自問し始めるということだ。そんな馬鹿な。『罪と罰』など読まなくても、たとえば私など、ものごろころのついた四・五歳くらいから大人の世界を知り、善悪とは何かを自問し始めた。それが人間というものだ。アダムとエバの神話はそのことを象徴的に現しているのだ。神の警告を無視してエバが善悪を知る木の実を食べたので、神の怒りにふれ、エバとアダムは神の国から追放されたのだ。人間とは善悪を知る動物なのだ。善悪を知るというのが、他の動物と人間を分ける特徴だ。『罪と罰』を読んで善悪を知るわけではない。もし亀山の言うとおりなら、『罪と罰』を読まない人たちは善悪の区別のつかない動物並みの存在ということになるだろう。
 ところで、亀山が話しかけている中高一貫教育の松山西中等教育学校の四・五年生というのは高校一・二年生にあたる。もう善悪のことなど、うんざりするほど考えてきただろう。『罪と罰』を読んで初めて善悪のことを考え始める高校生などいない。
 従って、もし『罪と罰』について説明するつもりなら、幼少時から、善とは何か、悪とは何か、と考えてきた私たちは『罪と罰』を読み、深い驚きとともに、さらに徹底的に自分の内なる悪と善について考え始める、という風に言わなければならない。
 それなのに、吉岡による亀山によれば、『罪と罰』は、あくまでも青少年の善悪を「考える魂」を目覚めさせる「最初で最後の童話」なのだ。こんな愚かな話に、どうして「生徒も先生たちも、深くうなずく」のか。この松山西中等教育学校の先生、そして生徒とは何者なのだ。亀山に操られたロボットか。まさかそういうことはあるまい。
 吉岡さん、これから私がこのブログで書く亀山批判を熟読して下さい。