ドストエフスキーを読んではいけない人

 ドストエフスキーの愛読者は世の中のはぐれ者である。また、そうでなければドストエフスキーの愛読者にはなれない。
 これは私が「誰がドストエフスキーを読むのか」(1994)という長大な論文で述べたことだ。あまりに長大すぎたので、その内容を圧縮し、「ドストエフスキーの読者」(1997)という論文にした。今の私にとっては下らない論文だが、物好きな人は、入門編の後者をまず読んで、それから前者を読んでほしい。この二論文は安永浩のファントム空間論をベースに、そこに作田啓一のABC理論と木村敏の理論を加えながら書いたものだ。これを読むと、どんな人間がドストエフスキーを読んではいけないのかがすぐ分かる。
 そこで述べたことを簡単に言えば、ドストエフスキーを読んではいけない人間とは、まず、世の中をうまく渡ることのできる人間であり、次が自己防衛の強い人間だ。その次が向上心のない怠け者だ。
 従って、うまく自分を守りながら世の中をすいすい渡ることのできる人は、絶対にドストエフスキーを読んではいけない。読んでも、「何だ、ドストエフスキーってのはつまらないな」とガッカリするだけだ。それだけならいいが、こういう人は社交家でもあるので、「ドストエフスキーを読んだけど、ありゃ、つまらん作家だわな」と人に言いふらすだろう。
 こういう人に比べて、向上心のない怠け者は、ドストエフスキーの長編小説を読み始めても、「何をがたがた議論してるんや、うるさい奴らやな」と、その登場人物に呆れるだけで、たぶん本を放り出し、最後まで読まない。というか、読めない。だから、ドストエフスキーがつまらないと言いふらすことさえできない。従って、こういう人はドストエフスキーに敵対する能力がない。
 ドストエフスキーに敵対する能力を持っているのが、先の、うまく自分を守りながら世の中をすいすい渡ることのできる人だ。こういう人に怠け者は少なく、誰かからドストエフスキーはすごいと聞くと、ドストエフスキーの長編小説にかじりつき、最後まで読み通す。必ず読み通す。だから、困る。もっと困るのが、誰かからドストエフスキーはすごいと聞いて、これは儲かるとばかりにドストエフスキーの研究者になってしまう人だ。こういうドストエフスキーの研究者がまれにいる。誰とは言わない。うまく自分を守りながら世の中をすいすい渡っている人の中にこういう人がいる。大学の要職についたりする。学長になったりする。
 ところで、なぜ私がそんな下らない論文を書いたのかといえば、それは、作田啓一氏と話していて、「どうしてドストエフスキーの愛読者というのは変わり者が多いんでしょうかね」と、お互いの顔を見ながらため息をつきあったことがあるからだ。まあ、失礼な話だが、作田せんせにしてもその通りなので仕方がない。作田せんせのことを詳しく言うのはさらに失礼に当たるので自分のことを言うと、私などは五十歳になって初めて定職についた人間だ。それまでは、大学の非常勤講師を、多いときで週25コマ(大学の二部とか土曜も)教えて生き延びてきた。過労で死ななかったのは、幸運にも三十すぎに回心への運動を開始し、自分を心なき身と思うようになっていたからだ。心があって、いちいち自分を哀れんだりしていたら、きっと過労で死んでいただろう。そういう友人は多い。良き人たちは死んでしまった。
 なぜ私が定職に就けなかったのかと言えば、それはもちろん私が変わり者であるからだ。この人と仲良くなれば就職できると分かると、その人から離れる。本を出してあげましょう、と言われると、その人から離れる。というようなことがずいぶん続いたあげくの五十歳なのだ。就職できたのは、子供が不登校になり引きこもり苦しみ、こちらは心配で夜も眠れず、疲れ果て、外で人に逆らっているエネルギーがなくなったからだ。おとなしくしていれば、人生、道が開けるとそのとき初めて知ったのである。何という愚か者か。
 このたびの亀山批判に加わっているNN氏や森井友人氏、それに木下和郎氏がどんな人か私は知らない。会ったこともない。しかし、たぶん、というか、必ず世の中のはぐれ者であり変わり者であるに違いないと確信している。木下豊房氏にしても大学教授になってはいるが、とても世渡りの上手な人とは思えない。上手であれば、一銭の得にもならず、ロシア文学会に敵を作るだけの亀山批判などせず、うまく立ち回っていただろう。
 ということで、亀山批判の陣営に加わる人こそ、真のドストエフスキー・ファンなのだ(言い過ぎか)。