亀山郁夫の鈍感力

 どうやらこの世界には二種類の人間がいるらしい。プラトンが「国家」や「パイドロス」で執拗に述べていたのはこのことだったのだ。若い頃は、その執拗さに閉口したものだ。「分かっているよ、プラトンさん」と呆れていたのだが、まったく分かっていなかったのだ。それが今になって初めて分かる。棺桶に片足をつっこんでいるような年になって分かるとは、私は何という迂闊者だろう。
 二種類の人間とは何か。それはもちろん、真・善・美が一体となっているイデア界がこの世界に兆しとして存在していることに気づいている人間と、気づいていない人間だ。前者は真・善・美の世界に導かれ、生まれ変わると、また再び人間に生まれ変わることができるが、後者は生まれ変わっても人間以外の存在、たとえば蛇とかミミズなどに生まれ変わる。これがプラトンの作った神話だった。
 亀山のマトリョーシャ解釈を読んだ者が亀山に、
 「きみはずいぶんドストエフスキーに悪意を抱いているんだな」
 と、言っても、亀山は、
 「へ?悪意?そりゃ何だい」
 と、答えるだけに違いない。そして、こんなことまで言うかもしれない。
 「ぼくのマトリョーシャ解釈をドストエフスキーに対する悪意と感じるのは、そちらの勝手でしょ」
 こんなことになるのは、亀山がこの世界に兆しとして存在しているイデア界に気づくことができないからだ。私は亀山のここ何年かのドストエフスキー論を読んでいて、そう結論を下さざるを得なくなった。亀山は「悪霊」のピョートル・ヴェルホーヴェンスキーのように、真・善・美の兆しをまったく感じることのできない人間なのだ。
 そう考えなければ、亀山の一連の発言は理解できない。
 たとえば、亀山によれば、スメルジャコフ(「カラマーゾフの兄弟」)の父親は下男のグリゴーリーだ。しかし、「カラマーゾフの兄弟」を素直に読めば、スメルジャコフの父親がフョードルであることはほぼ明らかだろう。そんなこと知るもんか、という顔で生きているフョードルを私たちは「食えないおっさんだな」と思う。ところが、亀山はこう言う。
 「スメルジャコフが生まれる一八四二年まで、下男のグリゴーリーは旺盛な性欲をもてあまし、それとは知らず異端派(鞭身派)の集会に顔を出していた。あるときその儀式にまぎれこんだリザヴェータと関係を結んだ彼は、スメルジャコフの出産に立ち会い、自分が父親ではないかという「いまわしい疑い」を抱いた。」(『ドストエフスキー 謎とちから』p.227)
 これはすでにドストエフスキーの作った物語ではなく、亀山が捏造した物語にすぎない。しかし、誰の目にも、この捏造した物語によって亀山が何を目指しているかは明らかだろう。つまり、亀山は謹直で信心深いキリスト教徒であるグリゴーリーのイメージをぶち壊そうとしているのだ。何のためか。それはドストエフスキーがそんな風にグリゴーリーを描いているからだ。では、なぜ私たちはドストエフスキーがそんな風にグリゴーリーを描いていると思うのか。それは私たちはドストエフスキーが描いたグリゴーリーに真・善・美の兆し(信心深く謹厳実直なグリゴーリー)を感じるからだ。このため、私たちは亀山説を、私たちがドストエフスキーと共有する真・善・美への憧れに唾をひっかけるような物語だと思い、その物語に激しい怒りを覚えるのだ。
 「亀山よ、きみはそんなにもドストエフスキーを憎んでいるのか」と私が言ったのはそのためだ。亀山のマトリョーシャ解釈しかり、「カラマーゾフの兄弟」におけるペレズヴォン解釈しかり。亀山のドストエフスキー論はすべて、ドストエフスキーの作品から真・善・美の兆しを摘みとり、真・善・美に憧れるドストエフスキー自身の声をその作品から抹殺しようという試みなのだ。
 しかし、こんな風に私が怒るのは見当違いだ。私は当初、亀山のドストエフスキー論に激しい怒りを覚えていたが、それは的はずれの怒りだった。なぜなら、亀山には本当に真・善・美の世界が分からないからだ。亀山のドストエフスキー論とドストエフスキー作品の翻訳を読み進むに従って、そのことが次第に明らかになってきた。そうでなければ、ドストエフスキーの世界から、こんなにも徹底して真・善・美の兆しを摘んだりはしない。つまり、亀山はピョートル・ヴェルホーヴェンスキーの生まれ変わりなのだ。