「怪物」亀山郁夫

「怪物」亀山郁夫

 いつからだろうか、背後に「神」を感じることができないような文章に耐えられなくなったのは。小説はもちろん、論文でもそうだ。雑文でも同じだ。私はそのような文章に耐えられない。たとえば、日本語で書く作家で私が繰り返し読むことができるのは、椎名麟三安岡章太郎島尾敏雄、小川国夫、深沢七郎田中小実昌色川武大などだ。若い頃は、吉行淳之介阿部昭坂上弘なども愛読していたが、いま読むと、やはり面白いが、それだけだ。このことは何年か前、そのような作家の作品を読み返して身に沁みたことだ。読み返したのは、非常勤で行っていたある女子大学の創作コースの教材を選ぶためだった。椎名麟三系列は女子大生には不評だった。「キモーイ(気持わるい)」。そうだろうな。
 私が背後に「神」を感じることができないような文章に耐えられなくなった時期は自分でもはっきりしない。ひとつはっきりしているのは、その時期がドストエフスキーを身近に感じられるようになった時期と重なっていることだ。そのころは無茶苦茶だった。死ななかったのが不思議だ。
 もっとも、「神」というと不正確かもしれない。なぜなら、神が存在しているかどうかなど私には分からないからだ。しかし、私を造りだしてくれた存在をかりに「神」と名づけるとすれば、そのような神が存在することは確かだ。そうでなければ、私は存在することさえできなかっただろう。ところが、そのような神が存在しているかどうか私には分からない。存在しているのは確かなのに、それが存在しているかどうかは分からない。
 従って、人間とは神の存在が分からない存在だ。これが人間の定義だ。また、この定義を認めることがまさに神の存在を認めるということだ。一方、この定義を認めないことが、神の存在を認めないことであり、神なき世界に生きるということだ。
 要するに、「人間とは神の存在が分からない存在だ」という定義を認めることができる者は、謙譲の裡に生きることが可能になる。一方、認めることができない者は、謙譲の裡に生きることができない。彼らは『カラマーゾフの兄弟』のイワンのように「春先の若葉」を楽しみながら「今を生きる」ことはできることはできるかもしれないが、人生が無意味であることに苦しむだろう。
 しかし、人生の無意味さに苦しむことさえできない者もいる。パスカルはそのような者について次のようにいう。

 彼ら自身に、彼らの永遠に、彼らのすべてにかかわる問題に対するこの怠慢は、私に同情心を起こさせるよりは、むしろ私をいらいらさせる。私を呆れさせ、恐れさせる。それは私にとっては、一個の怪物である。私がこのことを言うのは、霊的な信仰の敬虔な熱心さから言っているのではない。それどころか、それとは反対に、人間的利害の原則、自愛の見地からいっても、そういう感情をいだくはずだという意味で私は言っているのである。そのためには、最も無知な人々でも見ていることを見さえすればいいのである。(『パンセ』、P194、前田陽一、由木康訳)

 ずいぶん長い枕になった。
 私がこんな長い枕を書いたのは、亀山郁夫が、パスカルによって「怪物」と呼ばれているような人間であり、ドストエフスキーと相容れない人間であるからだ。
 このことは亀山のドストエフスキー論や『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を読めば、ドストエフスキーの愛読者には分かることだ。しかし、つい先日も、このことを再確認させてくれるような出来事があった。このブログで亀山郁夫のことを「子供だまし」と批判した出来事だ。皮肉ではなく、私はそのスキャンダル(スキャンダル以外の何ものでもないだろう)を報じてくれた朝日新聞の記者、吉岡秀子に感謝している。冷静になって考えれば、吉岡は亀山のアホダラ経のような授業をそのまま要約しただけなのかもしれない。事実は分からないが、私は吉岡を罵倒したことについて吉岡に謝罪する必要があるのかもしれない。
 ところで、このスキャンダルについて述べる前に、私は亀山にも謝罪しておかなくてはならない。というのも、私の批判に誤りがあったからだ。
 私は亀山が帝政ロシアに死刑がないことを知らないまま、高校生たちに『罪と罰』の話をしていると思っていた。つまり、亀山は秋葉原無差別殺人事件とラスコーリニコフの犯行を比べ、秋葉原の犯人は極刑、つまり死刑になるかもしれないのに、なぜラスコーリニコフは死刑にならないのでしょうね、と高校生たちに話しかけている、そう私は思っていた。新聞記事を読めば、そうとしか読めないのだが。
 しかし、私はそう書いたあと、亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読み返していて、自分の間違いに気づいた。亀山はちゃんと帝政ロシアに死刑がないことを知っていたのだ(亀山郁夫訳、『カラマーゾフの兄弟3』、p.526)。もっとも、これはR・ヒングリーの『19世紀ロシアの作家と社会』(川端香男里訳、中公文庫)をそのまま写したものにすぎない。
 問題はこの先だ。
 つまり、亀山は帝政ロシアに死刑がないことを知っていた。また、『罪と罰』を訳しているのだから、当然、ラスコーリニコフが裁判官の心証を良くするような数々の善行を積み重ねていることも知っていたはずだ。なのに、亀山は「なぜ強制労働8年の刑で済んだのでしょうね、みなさん」と、高校生たちに呼びかけている。そして、その答として、「これはドストエフスキーが主人公と読者に与えたメッセージなのです。つまり、生きろ!ということなのです」と述べる。
 しかし、ごく常識的に考えれば、ラスコーリニコフの刑が軽くなったのは、彼が自首したこと、自分の罪をはっきり認めたこと、また、彼がこれまで数々の善行を積んできたことなどが考慮されたためだ。書けば蛇足になるのでドストエフスキーは書いていないけれど、常識的な読者が読めば、ラスコーリニコフの「悔い改め」は近いと裁判官が期待していたのは明らかだろう。事実、裁判官の期待通り、ラスコーリニコフ流刑地に送られると、自分の罪を心から悔い、回心する。
 以上ふたつの事実を並べると浮かび上がってくるのは、亀山にはキリスト教信仰において重要な「悔い改め」の意味がまったく分かっていないということだ。これはドストエフスキーが分からないということでもある。亀山はパスカルが言うような「怪物」なのだ。