野いちご

 ベルイマンの映画『野いちご』で、主人公の老教授イサクは或る詩を口ずさみはじめるが、途中で詩の文句を忘れる。すると、彼を囲んでいた行きずりの若者たちがその詩を続ける。その詩は或る人のブログ(https://yojiseki.exblog.jp/11966306/)によれば、こういうものだそうだ。

探し求めた友はいずこにありや
夜明とともに心乱れて胸が騒ぐ
夜が更けても友は現れぬ
気配を感じているのに
いたる所に神のしるしがある
かぐわしい花の香り
そよぐ風
ため息もすう空気も神の恵みだ
夏のそよ風に声がする

 ベルイマンのその映画でこの詩を聴いて、わたしは『カラマーゾフの兄弟』に出てくるゾシマとその兄マルケルのことを思い浮かべた。
 マルケルは迫り来る自らの死の直前、こう言う。

「そうだ。僕のまわりには小鳥だの、木々だの、草原だの、大空だのと、こんなにも神の栄光があふれていたのに、僕だけが恥辱の中で暮し、一人であらゆるものを汚し、美にも栄光にもまったく気づかずにいたのだ。」(『カラマーゾフの兄弟(中)』、原卓也訳、新潮文庫、2007、p.69)

 これと同じことをゾシマも言う。

「神のあらゆる創造物を、全体たるとその一粒一粒たるとを問わず、愛するがよい。木の葉の一枚一枚、神の光の一条一条を愛することだ。動物を愛し、植物を愛し、あらゆるものを愛するがよい。あらゆる物を愛すれば、、それらの物にひそむ神の秘密を理解できるだろう。」(同上、p.141)

 わたしが拙著『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』で暗示したように、昇りのエレベーターから降りると、このような「神の秘密」が理解できるようになる。しかし、昇りのエレベーターから降りようとしない、自らの自尊心の病に気づかない傲慢な人にとって、そのマルケルとゾシマの言葉は理解不能になる。そして、「ゾシマは動物崇拝者で人間の原罪を認めない反キリスト教的人物です」(佐藤優、『現代思想』、第49巻第14号、2021、p.24)などと言うようになる。佐藤は、『生きぬくためのドストエフスキー入門――「五大長篇」集中講義』(新潮文庫、2021、pp.212-213)でも同じことを述べている。このような佐藤の言葉を鵜呑みにするドストエフスキーの読者がいるかと思うと、ゾッとする。日本の出版界は壊れたのか。もっとも、「悪に対しては戦うのもよかろう。しかし、愚劣というものが相手では手の出しようがない」(ヘンリー・ミラー、「八十歳を越えて」、村上東訳)。

土壌主義

 拙著『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』で述べたように、ドストエフスキーアポロン・グリゴーリエフと共に唱えた土壌主義とは、社会の最底辺に生きる人々とともに生きることです。つまり、昇りのエレベーターから降り、自らそのような人々とともに生きるということです。
 このような姿勢は、シベリアの監獄で回心への運動を開始したドストエフスキーがシベリアから帰還して書いた小説に一貫して現れています。要するに、彼の社会の最底辺の人々とともに生きようという姿勢が『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』などに現れているのです。
 これは聖書も同じです。
 大阪の釜ヶ崎で布教している本田哲郎が言うように、「旧約聖書新約聖書も、どちらも、基本的には当時の社会の底辺に立たされていた人たちを励まし力づけるために書かれたもの、ということでは共通しています」(『講義録』、vol.3、日本聖書協会主催「聖書セミナー」、クリスチャンセンター神戸バイブル・ハウスセミナー委員会発行、2011)。
 ところが、本田によれば、「その聖書の解釈・翻訳が、社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たちによって、自分たちの視座をもってなされている」(同前書)。つまり、「原作者の視座を共有してこそ、正確な翻訳ができるもの」であるのにも拘わらず、「社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たち」が訳したため、共同訳聖書ではそうなっていない。「聖書を正しく翻訳するためには、貧しく小さくされている人々の、痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りの視座に立つ努力は不可欠」(同前書)なのです。
 これと同じことがドストエフスキーの小説、とくにシベリアから帰還して彼が書いた小説の解釈・翻訳にも言えます。しかし、わが国では、聖書と同様、ドストエフスキーの小説も、「社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たちによって、自分たちの視座をもって」解釈・翻訳されているのです。このため、たとえば、亀山郁夫のとんでもないマトリョーシャ解釈がインテリたちに拍手をもって迎えられたのです。

誤植と誤記

拙著『ドストエフスキーのエレベーター』には次の誤植と誤記がありました。

 

p.10、3行目 【誤】これがレヴィナスの考えだ。→【正】と言う。これがレヴィナスの考えだ。

 

p.32、6行目 【誤】「なぜ、そう呼のか」 → 【正】「なぜ、そう呼ぶのか」

 

p.43の注 後ろから4-3行目 【誤】『現代思想9』所収、1979年、p.202 → 【正】「現代思想」第7巻11号、青土社、1979年、p.202

 

p.69、注28  『小説とは何か』の出版社の補足 → 米田一彦訳、ダヴィッド社

 

p.112、12行目 【誤】ペトラシェシェフスキー → 【正】ペトラシェフスキー

 

p.113、1行目 【誤】ペトラシェシェフスキー → 【正】ペトラシェフスキー

 

p.143、1行目 【誤】「本物の血と肉からなる」生きた父親 → 【正】「生きた父親」

       

p.143、5行目 【誤】シベリアの監獄でドストエフスキーフォン=ヴィージン夫人宛の → 【正】シベリアの監獄から出たばかりのドストエフスキーのフォン=ヴィージン夫人宛の

 

p.151、注79 【誤】萩原俊治 → 【正】拙稿

 

p.167、注88 【誤】拙稿、「物語はなぜ暴力になるのか」、『言語と文化』第4号(大阪府立大学総合科学部言語センター紀要)、2005、pp.293-317  → 【正】拙稿、「物語はなぜ暴力になるのか」、pp.293-317

 

p.179、2行目 【誤】『ネートチカ・ネズワーノワ』 → 【正】『ニェートチカ・ニェズヴァーノヴァ』

 

(2022/02/22追加修正)

 

 

「ドストエフスキーのエレベーター」

拙著「ドストエフスキーのエレベーター」が出ました。お読み頂ければ有り難いです。

天分

高校生の頃、アドリブ教則本みたいなものを何冊か買いこんで一年ほどトランペットでアドリブの練習をしたけど、ダメだった。クリフォード・ブラウンの偉大さがよく分かった。理屈でアドリブはできない。文章も同じだ。文章読本みたいなものをいくら読んでもドストエフスキーや朔太郎が書いたような生きた文章は書けない。文章にも天分というものが必要なように、音楽言語にも天分が必要だ。天分がないのに音楽を演奏したり文章を書いたりして他人に披露するのは、はた迷惑でしかない。しかし、ドストエフスキープルーストもはた迷惑でしかない駄作をかなり書いている。だから、天分がないからといってあきらめてはいけないということか。

武田泰淳と古井由吉

武田が古井に「(演歌を)自分で歌いますか」と訊くと、古井が「歌います」と答える。すると、武田が「うん、それは話しやすい」という(『生きることの地獄と極楽――武田泰淳対話集)』(勁草書房、1977、p.96)。ドストエフスキーだって、日本人だったら演歌を歌っただろう。ツルゲーネフとかトルストイは歌いそうにない。なぜなら、根がないから。つまり、大衆という存在を理解できないから。日本のいわゆるインテリが演歌を毛嫌いするのも、このためだ。