土壌主義

 拙著『ドストエフスキーのエレベーター――自尊心の病について』で述べたように、ドストエフスキーアポロン・グリゴーリエフと共に唱えた土壌主義とは、社会の最底辺に生きる人々とともに生きることです。つまり、昇りのエレベーターから降り、自らそのような人々とともに生きるということです。
 このような姿勢は、シベリアの監獄で回心への運動を開始したドストエフスキーがシベリアから帰還して書いた小説に一貫して現れています。要するに、彼の社会の最底辺の人々とともに生きようという姿勢が『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』などに現れているのです。
 これは聖書も同じです。
 大阪の釜ヶ崎で布教している本田哲郎が言うように、「旧約聖書新約聖書も、どちらも、基本的には当時の社会の底辺に立たされていた人たちを励まし力づけるために書かれたもの、ということでは共通しています」(『講義録』、vol.3、日本聖書協会主催「聖書セミナー」、クリスチャンセンター神戸バイブル・ハウスセミナー委員会発行、2011)。
 ところが、本田によれば、「その聖書の解釈・翻訳が、社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たちによって、自分たちの視座をもってなされている」(同前書)。つまり、「原作者の視座を共有してこそ、正確な翻訳ができるもの」であるのにも拘わらず、「社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たち」が訳したため、共同訳聖書ではそうなっていない。「聖書を正しく翻訳するためには、貧しく小さくされている人々の、痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りの視座に立つ努力は不可欠」(同前書)なのです。
 これと同じことがドストエフスキーの小説、とくにシベリアから帰還して彼が書いた小説の解釈・翻訳にも言えます。しかし、わが国では、聖書と同様、ドストエフスキーの小説も、「社会の底辺の痛みを知らないインテリの学者たちによって、自分たちの視座をもって」解釈・翻訳されているのです。このため、たとえば、亀山郁夫のとんでもないマトリョーシャ解釈がインテリたちに拍手をもって迎えられたのです。