体言止め

 最近、五十年ほどかけて書いたことになるドストエフスキー入門書というかドストエフスキー再入門書みたいなものが出来上がって、ほっとしている。そして、わたしに残された人生は短いはずなので、ドストエフスキーの作品の中から好きなものを順に訳しておこうと考え、ぼちぼち訳しているのだが、そこでいつも引っかかるのが「体言止め」である。訳しているうちに体言止めの文章を書こうとしている自分に気づき、激しく逆上する。アホか、お前は、と思う。
 体言止めとは、文章を名詞や代名詞で終えることだが、わたしはこの体言止めが心底嫌いなのである。いや、つい最近まではあまり嫌いではなかった。しかし、最近は本当に嫌いになった。以前自分が書いた体言止めの文章を読んだりすると、恥ずかしさに舌を噛んで死にたくなる。いや、すでに舌ガンで舌は半分切られているから、噛もうにも噛めないのだが、そういう気持になる。
 しかし、なぜ嫌いなのか、と問われても、さあ?、というしかない。たとえば清少納言の書いた『枕草子』は、こう始まる。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜。・・・秋は夕暮れ。・・・」
 この文章が嫌いなのは、その気取った感じである。「春はあけぼの」、アホか。「夏は夜」、どアホ。「秋は夕暮れ」、殺したろか。という具合である。
 こんな殺気だった気持になるのは、年とともに頭が固くなり、虚栄嫌いが度を越してきたためなのかもしれない。しかし、ドストエフスキーを訳していると、どうしても体言止めを使いたくなる、というか、体言止めでないと、文章が成立しなくなるときがある。そういうときは、噛めない舌を噛んで体言止めを使うのである。