ドストエフスキーと私

昨日、30分だけだったが、神戸外大ロシア学科の同窓会(楠露会)で話をさせて頂いた。以下はその原稿。

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ドストエフスキーと私

 きょうは会のために何か話をしてほしいと山田さんから御依頼を受けましたので、私がなぜドストエフスキー研究者になったのかについて話したいと思います。
 私は高校生の頃、それまで暇があれば朝から晩まで楽器をいじっていた音楽少年であったのにも拘わらず、突然ドストエフスキーにつかまり、それ以来、ドストエフスキーから離れられないまま現在に至りました。高校で同級だった水田君という人が授業中こっそり『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたので、教師の目を盗んでまでして読まなければならないほど面白いものなのか、それなら自分も読んでみよう、そう思って読み始めたのです。読んでみたところ、それまで読んでいた夏目漱石志賀直哉などとは桁違いの面白さで、まったく異次元の世界に連れて行かれるような気がしました。そして高校を卒業したのですが、何をしたいのかが自分でも分からず、分からないまま、薦められるまま親戚の石屋の跡を継ぐため、その見習をしたりもしていたのですが、結局、ドストエフスキーが忘れられず、ロシア語で読みたいと思い、神戸外大のロシア学科に入りました。
 ところで、ロシア学科に入ったのはいいけれど、当時は、全共闘運動がさかんな時代で、校舎は全共闘の学生に占拠され、授業は行われておりませんでした。平均から外れた私の友人の大半はやはり平均から外れた全共闘の人たちでしたが、その友人たちが何をめざしているのか、政治に関心のない私にはまったく理解できませんでした。そこで、私は下宿に引きこもって本ばかり読んでいました。手当たり次第に何でも読んでいましたが、特に繰り返し読んでいたのは、孔子老子荘子などの中国の古典と、仏典や聖書などの宗教書、エピクテートスなどのストア派などでした。周囲が騒然としていたので、心を静めようと思っていたのでしょう。それから、日本の古典や英米仏独露の古典も読みましたが、やはり、ドストエフスキーをいちばん熱心に読みました。
 このとき米川正夫訳の全集を図書館から借りだし、最初から全部読んでいったのですが、読んでみると、自分にはドストエフスキーがまったく分からないということが分かりました。高校のときは池田健太郎訳で読んだのですが、そのときは初めて読んで興奮し、分かったつもりになっていただけだということが分かりました。特に分からなかったのは、『罪と罰』のソーニャや『カラマーゾフの兄弟』のマルケル、ゾシマ、アリョーシャでした。このため、彼らの思想の対極にある『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のイワンなどもほとんど分かっていないということが分かりました。私は非常に落胆し、それでも文学は好きでしたので、自分にも比較的理解可能な作家、たとえば、梶井基次郎島尾敏雄カミュマンディアルグなどを読み、自分でもその真似をして小説を書き始めました。しかし、それと同時に、ドストエフスキーから離れたくなかったので、ドストエフスキー研究を続けるため大学院に入りました。ドストエフスキーは分からないと思ったので直接ドストエフスキーを研究対象に選ばず、ドストエフスキーの天敵とでも言うべき風刺作家サルトィコフ=シチェドリンを研究することにしました。要するに、ドストエフスキーの敵である作家を研究すれば、ドストエフスキーが分かるようになるかもしれない、と思っていたのです。しかし、それは錯覚でした。
 サルトィコフ=シチェドリンというのはサルトィコフが本名で、シチェドリンペンネームです。彼はドストエフスキーの天敵だということで有名ですが、イソップ言語を使った作家ということでも有名です。イソップ言語というのは、イソップという古代ギリシャの奴隷が自分の主人を批判するために使った言葉で、主人にはそれと分からないように婉曲に主人を批判するための言葉です。サルトィコフ=シチェドリンロシア帝国封建制を直接批判すれば逮捕されますから、イソップ言語を使って婉曲に批判し続けました。このため、サルトィコフの言葉というのは読み解くのがじつに難しく、それと格闘したおかげでロシア語が少しできるようになりました。しかし、無神論者のサルトィコフ=シチェドリンをいくら研究しても、キリスト教者のドストエフスキーを理解するのには何の役にもたちませんでした。その状態が三十歳すぎまで続きました。
 先に言いましたように、私はロシア文学を研究しながら同時に小説も書いていましたが、これといったものは書けず、これもドストエフスキー研究と同様、行き詰まっていました。ところが、三十歳をすぎたあるとき、仔細ははぶきますが、経済的にも精神的にも生活に行き詰まり、まあ死ぬしかないというところまで追いつめられてしまいました。じっさい離人症というすべての感覚を失うという病気にもなったのですが、そのころ、偶然、『地下室の手記』のような、と自分で思っているだけですが、わりあい出来の良い小説が書けました。と同時にドストエフスキーの『地下室の手記』も少し分かるようになっていることに気づきました。これで小説を書くのをやめました。小説を書くより大事な究明しなければならないことがあると分かったからです。
 『地下室の手記』というのはドストエフスキーの転機になった作品です。『地下室の手記』以降、ドストエフスキーは『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』といった本格的な小説を書くようになります。『地下室の手記』以前の作品も面白いのですが、思想的にも芸術的にも底の浅いものです。私は『地下室の手記』が少し分かって以来、ドストエフスキーが次第に分かるようになりました。
 なぜドストエフスキーが分かるようになったのか。それはきわめて簡単なことで、自分の「自尊心の病」に気づいたからです。「自尊心の病」という言葉は、そのことに気づいたあと書いた、ドストエフスキーの『スチェパンチコヴォ村とその住人たち』を論じた論文で私が使った言葉で、自分の自尊心に気づいていない状態を指します。自分の自尊心に気づいていないというのは病なのです。この病にかかっているとドストエフスキーが分からなくなります。それだけではなく、たぶん人間そのものが分からなくなると思います。
 この病にかかっている人は、相手の一枚上をゆこうとします。要するに、負けるのがいやなのです。このような人は、現在の自分に飽き足らず、自分より上を行っている人がいると、その人の真似をし、変わろうとします。オバマ大統領が大統領就任演説で「チェンジ」といいましたが、またイチロー選手がコマーシャルで「変わらなきゃ」と言いましたが、失礼ながら、そんなことを言う人は自尊心の病にかかっています。本気でそう言ったのだとしたら、オバマ大統領もイチロー選手もドストエフスキーを理解することはできないはずです。
 なぜ彼らはドストエフスキーを理解できないのか。それは、われわれは自ら変わろうと思って変われるものではないからです。
 たとえば、先のアメリカとの戦争に敗北し、日本人は民族滅亡の淵に立ちましたが、そのとき日本人の多くはこんな事態になったのは自分たち全員に責任がある、ということで反省しました。総懺悔という言葉も流行りました。このような事態を受けて、小林秀雄という文芸評論家が、自分は反省などしない、「ぼくは歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている」、つまり、日本は戦争を行う必然性があったのだ、と言って左翼の人たちの顰蹙をかいました。
 しかし、小林の真意は、口先だけで反省したところで、日本人も自分も変われないのだから、総懺悔したって無意味だ、ということでした。つまり、いくら反省したところで、アメリカと勝ち目のない戦争を始めるような日本人の国民性は変わらないし、そんな戦争に熱狂した自分も変わらない、ということです。そんな空しいことをするより、愚かなことをした自分たちのありのままの姿を見つめる方が大事ではないか、というのが小林の真意でした。じっさい小林の言うとおり、その後日本人はアメリカ人などをお手本にして変わろうとしましたが、日本人の国民性は変わらず、政治学者の丸山真男が「たこつぼ」と評したような無責任な行動が反復されています。
 このように、国民全体だけではなく、個人においても、人は変わろうと思っても変われるものではないということは、日本人だけに当てはまる事柄ではありません。それは普遍的な事柄だろうと思います。その代表的な例のひとつとして、イエス・キリストの弟子のペテロという人のことを述べてみます。
 イエスはあるとき、自分が置かれた状況を察知し、弟子たちにこう言います。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼いを打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と書いてあるからである。」要するに、今夜自分はローマ帝国の役人たちに逮捕され死刑になるだろう、そして、羊であるお前たちはそのような羊飼いである私を見捨てて逃げ出すだろう、と言ったのです。ここで弟子たちがイエスに「つまずく」というのは、自分が弟子たちにとって乗り越えられない壁のようになるということです。要するに、自分が逮捕されるとき、弟子たちが自分を捨てて逃げ出し、彼らの無神論が明らかになるということです。
 すると、ペテロがこう言います。他の弟子たちと私は違う。他の弟子たちが逃げてしまっても私はどこまでもあなたに付き従い、ともに死ぬ覚悟です、と。そのペテロに対して、イエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言います。ペテロは、いえ、けっしてそんなことはありません、と答え、ペテロに続いて他の弟子たちもそういいます。
 イエスが言ったとおり、その夜、イエスは逮捕されます。そしてイエスが言ったとおり、弟子たちはペテロも含めてみなイエスを見捨てて逃げてしまいます。しかし、イエスに約束した意地もあったのか、ペテロはひとり舞い戻ってきて、イエスが裁かれている建物のある中庭にこっそり忍び込み、裁きが終わるのを待っています。すると、そこにひとりの女中が近づいてきて、あなたはあの男の仲間だろう、と言います。ペテロは、違う、と言います。そして、これはまずいと思い、急いで中庭から外に出ようとしますと、またべつの女中に同じことを言われ、また、違う、と言います。その騒ぎを聞きつけて他の人たちも集まり、同じことをペテロに言います。そしてペテロが三度目に、違う、と言ったとき、夜が明け、鶏が鳴きます。マタイによる福音書では次のように述べられています。

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。(マタイ:26.75)

 ペテロはなぜ泣いたのか。それは、自分の愚かさが情けなくて泣いたのです。つまり、自分はイエス・キリストという先生に出会って、もうかつてのような愚かな人間ではなくなっていたと思っていたのに、じっさいにはまったく変わっていなかった、相変わらず、言うこととやることが乖離している愚か者にすぎなかった、ということが分かったからです。要するに、ペテロは自分がイエスを真似ているだけだということが分かったのです。そしてそれが虚栄、つまり、自らの自尊心が招いた振る舞いであることが分かったのです。このときペテロはようやく自分の自尊心の病に気づいたのであり、ようやくイエスに一歩近づくことができました。
 さて、ドストエフスキーに話を戻しますと、『地下室の手記』の主人公も同様の体験をします。『地下室の手記』の主人公は、ふとした気まぐれから学校の同窓会に出て、自分以外の同窓生がちゃんと世の中でそれなりに成功しているのにひどく傷つき、その傷ついた自分の自尊心をなだめるため、売春婦を買いにゆきます。そして、愛読していたシラーの博愛主義をまね、そのリーザという売春婦に、こんなところで働いていてはいけない、困ったことがあったらいつでもおいで、と言って、自分の住所を教えます。さて、自分がそんなことを言ったことも忘れていたある日、そのリーザがほんとうにやってきます。主人公は驚きますが、相談に乗ることもできずおろおろしているうち、いつのまにかエッチな気持になり、リーザと交わります。ことが終わったあと、リーザにその代金を支払います。リーザは呆れて帰ってゆきます。このとき、主人公は自分のほんとうの姿に直面します。自分ではシラー風の博愛主義者だと思っていたが、それはシラーを読んでそうなりたいと思っていただけだ。それは虚栄にすぎなかった。自分はただのエゴイストにすぎない、ということに気づきます。ここで『地下室の手記』の主人公の自尊心はペテロのそれと同じように、粉々に砕けます。
 詳しく述べることはできませんが、この『地下室の手記』の主人公に起きた事態がドストエフスキーにも起きていたことが、彼の書いたノートから分かります。このときドストエフスキーも初めて自分の自尊心の病に気づいたのです。これ以降、ドストエフスキーは回心に向かって歩み始めます。その回心の記録が『罪と罰』以降の作品群です。ドストエフスキーの作品には『罪と罰』のソーニャを始めとするキリスト教信仰をもつ人々が登場し始めると同時に、その信仰とは対極にある悪もきわめて深みのあるものとして描かれるようになり、その悪は『悪霊』のスタヴローギンや『カラマーゾフの兄弟』のイワンなどの中に現れます。
 まだまだ言わなければならないことはありますが、以上で「自尊心の病」に気づくとはどういうことかだいたいお分かりになったと思いますので、これで話を終わります。読者も自らの自尊心の病に気づかないかぎり、『地下室の手記』以降のドストエフスキーを理解することができない、というのが私のきょうの話でした。