日本人のエゴイズム

 『京都新聞』(9月18日、朝刊)に内田樹が安保法案について書いていた。日本がアメリカの属国であるとか、属国であるので、安倍首相は先のアメリカ議会で安保法案の成立を約束したのだ・・・というような内田の言葉はその通りと私も思う。私もこのブログで何度も書いてきたように、日本がアメリカの属国であることは明らかだ。日本には外交的・軍事的な選択肢がほとんどない。いつもアメリカの鼻息をうかがわなければならない。そういう情けない国だ。こんなことになったのは、もちろん、先のアメリカとの戦争に負けたからだ。
 ところが、内田は突然、下のようなことを言って安倍を攻撃する。その内容が尋常ではない。安倍が「絶えず戦争をしている国」を目ざしているという。そう断定する根拠はどこにあるのか。なにか私の知らない情報でも握っているのか。握っているとは思えない。安倍首相はあらかじめアメリカの了解を得て、極東での日本の安全保障体制を整備しようとしているだけではないのか。内田の、そういう根拠なく人を煽るような言葉は困る。これもこのブログで書いてきたように、誰が言っているかが問題ではなく、何を言っているかが問題なのだ。内田は安倍首相が嫌いなのかもしれないが、自分の嫌いなやつが正しいことを言うことだってあるのだ。
 今回の安保法制が憲法九条に違反していることは明らかだが、こんなことになったのは、日本人の大半がこれまで憲法九条の改正を許さなかったからだ。改正を許さなかったのは、日本人に平和主義という「超自我」が形成されているためだ、そう柄谷行人は言うが、私はそうは思わない。
 日本人の多くの本音はこうだ。

 自分たちは日本を守るために死ぬのはいやだ。基地も提供するし、お金も出すから、アメリカに日本を守ってほしい。死ぬのはアメリカ軍だけにしてほしい。だって、私たちには憲法九条があるのだから。

 しかし、すでに日本人のこのような偽善とエゴイズムはアメリカに見抜かれている。見抜かれていないと思っているのは、日本人だけだ。だから、安倍首相はトッドが警告しているような中国や北朝鮮の脅威から日本を守るため、支持率低下を覚悟で、強引に憲法違反の安保法制を推し進めたのだろう。
 私は先日の国会で安保法制案が可決されるさいのドタバタ騒ぎをテレビで見ていて赤面した。国会議員たちのふるまいに赤面したのではない。
 議員たちをそのような愚かな振る舞いをさせるところまで追いつめた日本国民のひとりとして、自らを責め、赤面したのだ。
 その情景をテレビなどを通して見た世界中の人々が、日本人の愚かさにうんざりしたはずだ。

 安倍首相には、戦前の全体主義国家の再建という個人的な夢がある。
 ジョージ・オーウェルの「1984」的な暗鬱(あんうつ)な社会への志向は、靖国参拝特定秘密保護法やメディア支配や派遣法改定やマイナンバー制度への好尚からあきらかである。 そして、何よりも「絶えず戦争をしている国」であることこそ「1984」的社会の基本条件なのである。
 ただ、これほど大がかりな政治的ビジョンを実現するためにはどうしても米国の許諾を得なければならない。逆説的なことだが、戦勝国が「押しつけた」憲法9条を空洞化し、「戦争ができる国」になるためには戦勝国の許可がいるのだ。そして、そのための必須条件は 「米国と交わした約束を履行するためには自国民を裏切ることさえ厭(いと)わない人物である」という評価を得ることだった。
 安倍首相はその誓言を履行した。かつて韓国の李承晩、ベトナムのゴ・ジン・ジエム、 インドネシアスハルト、 フィリピンのマルコスを迎えた「開発独裁の殿堂」入りを、安倍首相は果たしたのである。 (内田樹、『京都新聞』、2015年9月18日朝刊より)