オーウェル

 若い頃の読書というのは、たとえそれが強制的なものであったとしても、のちのちまで強い影響を与える。こんな風に断言するのは間違いかもしれないが、少なくとも私にとってはそうだ。
 たとえば、高校生の頃、英語の授業でオーウェルの『動物農場』とモームの『要約すると』、それに英語の課外授業としてスティーヴンスンの『自殺倶楽部』を強制的に読まされた。強制的にだったが結果として面白い作品ばかりだったので、すぐこの三人の作家のファンになった。このため、その後何年間かかけて、この三作家の作品で翻訳のあるものはだいたい読んだ。また、オーウェルが好きになることによってオーウェルの好きな作家、たとえばヘンリー・ミラーが好きになり、ヘンリー・ミラーが好きになることによって、ヘンリー・ミラーの好きな作家、たとえばD.H.ロレンスアナイス・ニンロレンス・ダレルなどが好きになった。モームやスティーヴンソンの場合も同様だ。一人の作家が好きなると、次々に網の目が広がるように好きな作家が広がってゆく。私の十代の読書はこの三人の作家とドストエフスキー小林秀雄が愛好する作家を中心に広がっていった。それはまさに乱読であり、何の一貫性もなかった。
 このような作家の中で最近また繰り返し読むようになったのがオーウェルだ。書くものはそう面白くないのだが、その人間が好きだ。何かに行き詰まると読み返す。オーウェルの書くものには人を奮い立たせるものがある。つい最近も、『パリ・ロンドンどん底生活』(訳:小林歳夫)を読み返した。お世話になったくせにこんなことを言うのはよくないが、やはり翻訳が良くない。原文で読もうと思っている。
 オーウェル無神論者で『パリ・ロンドンどん底生活』でもキリスト教徒の慈善家をさんざんからかっているが、まったく気にならない。オーウェルキリスト教徒であろうがマルクス主義者であろうが、人に信仰や思想を強制するやつが嫌いなのだ。信仰や思想は自らの意志で選び取るものだ。そうでなければ、それは信仰や思想ではなくなる。