吉本隆明の亀山郁夫批判

  テレビで亀山の「100分de名著」を見ていて、吉本隆明の「大衆の原像」という言葉を思いだした。それは亀山がドストエフスキーの土壌主義のことをのべていたからだ。

 このブログ(「第二の敗戦期」)でも紹介したが、吉本は亡くなる前、亀山の訳した『カラマーゾフの兄弟』の解説を読んで、『カラマーゾフの兄弟』が「ぜんぜん読めていない」と言った。

 どこがどう読めていないのか吉本は語っていないのだが、言わんとすることは何となく分かる。吉本にとって、亀山のドストエフスキー論はあまりにも軽薄にすぎるのだろう。

 そのことは、たとえば、吉本の「大衆の原像」についての考えを思いだしてみるだけでも分かる。吉本は大衆の原像という言葉でドストエフスキーの土壌主義と同じことを言っている、というのが私の見方だ。

 しかし、吉本の「大衆の原像」論と言っても、いまや骨董品みたいに古くなってしまったかもしれないので、少し紹介しておこう。以下は、私の公開講座で出た質問に私が答えたものだ。言いたいことのいわば十分の一ぐらいしか言っていないのだが、言いたいことはだいたい分かって頂けるだろう。(引用した『未成年』は新潮文庫十九刷改版の工藤精一郎訳であり、丸括弧でその巻数と頁、さらに行という具合に示している)

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【質問】
 ロシアのナロード吉本隆明の「大衆の原像」は似ているというお話がありました。吉本は大衆を偶像化していたのではないかと思います。また、かつての「大衆と知識人」論争も単なる民主主義・資本主義が成熟化してゆく過程では、それなりの根拠をもっていましたが、完全に成熟化した現代においては、もはや存在しないのではないのかと思いますが、先生のご意見をお聞かせ下さい。
【回答】
 ご質問はふたつです。
① 吉本は大衆を偶像化していたのではないか。
② 完全に成熟化した現代(の日本)においては、かつての「大衆と知識人」論争はもはや存在しないのではないのか。
 いずれのご質問に対しても、答は「否」です。その理由をこれから述べます。
 ただ、ここであらかじめお断りをしておきますと、私が吉本隆明を熱心に読んだのは学生の頃からの十年間ぐらいで、そのあと、とくに理由はありませんが、まったく読まなくなった。したがって、私は読まなくなったあとの吉本については何も知りません。しかし、吉本のいう「大衆の原像」についてははっきりとした記憶があります。そこで、まずご質問に答えるため、吉本のいう「大衆の原像」について、『未成年』の一節を紹介しながら説明しようと思います。
 『未成年』を紹介するのは、『未成年』という小説を背後で支えている思想がドストエフスキーのいう「土壌主義」であり、その「土壌主義」と吉本のいう「大衆の原像」が意味する思想は、結局同じものであるからです。

 『未成年』の第二部第九章第一節のおわりに、賭博場から追い出され、自暴自棄になったアルカージイが放火を試みようとし、しかし、塀から転がり落ち、気絶する場面があります(下:99:6)。
 気絶したアルカージイは夢を見ます。
 彼は夢の中で、トゥシャールの寄宿学校に訪ねてきた母親を思いだしているのです。
 農奴であった母親は初めてその寄宿学校に息子を訪ねてきたのですが、貴族の子弟が学んでいるその寄宿学校でどう振る舞ってよいのか分からず、おろおろするばかりです。母親は息子に菓子などの入った包みを渡します。息子はその貧しい包みを恥じるだけです。そして母親を邪険に扱います。彼は農奴であった母親を恥じているのです。母親を恥じるということは、その母親の息子である自分をも恥じているということです。貴族の息子たちと比べて、あまりにもみじめな存在である自分を恥じているのです。母親は別れ際に息子に祈りを捧げ、お金を渡します。そこはこんな風に描かれています。
 
 「おお、主よ・・・天なる神よ・・・天使たちよ、聖母マリヤよ、聖ニコラよ・・・この子を守らせたまえ・・・主よ、天なる神よ!」と母はしきりとわたしに十字を切り、早くわたしの体中を十字で清めようとしながら、早口にくりかえした。「わたしのかわいい坊や、わたしのだいじな坊や!あっ、そう、坊や(【ここは誤解を招く訳なので次のように訂正】あっ、そうそう、坊や)・・・」
 母は急いでポケットに手をさしこむと、空色の格子縞のハンカチをとりだした。ハンカチははしがかたく結ばれていて母はその結び目をとこうとしたが・・・なかなかとけなかった・・・
 
 二十コペイカ銀貨を包んだハンカチごと息子に渡した母親はもう一度十字を切り、そして、アルカージイを驚かせる行動を取ります。
 
 母親はもう一度十字を切り、もう一度なにやらお祈りをつぶやくと、不意に・・・まったく思いがけなく、わたしにもおじぎをしたのである。上でトゥシャール夫妻にしたと同じように、深々と、ゆっくりと、長いおじぎを――わたしはこれを永久に忘れることができない!わたしはがくがくふるえた、そして自分でもどうしてかわからなかった。このおじぎで母はなにを言おうとしたのか?『わたしに対する自分の罪を認めたのか?』――それからかなりすぎてからわたしの頭にふとこんな考えがうかんだことがあったが――わたしにはわからない。しかしそのときは、わたしは恥ずかしさにさっと真っ赤になってしまった。『みんな上から見てる、ラムベルトにまたなぐられるかもしれない』
 
 なぜ母親は自分におじぎをしたのか。アルカージイはこのことを忘れることができません。これからもずっと母親がなぜ自分におじぎをしたのかと考え続けるでしょう。
 やがて母親は帰ってゆきます。
 包みに入った食べ物やハンカチの中の二十コペイカ銀貨は寄宿学校の仲間に奪われ、アルカージイには母親のくれたハンカチだけが残されます。彼はそのハンカチを枕の下に隠します。ある晩、そのハンカチを取り出し、顔をおしあて、接吻します。
 
 『お母さん、お母さん』とわたしは思い出しながら、口の中でつぶやいた、すると胸が万力でしめつけられるように、ぎりぎり痛んだ。目をつぶると、唇をふるわせている母の顔が見えた。それは母が寺院にむかって十字を切り、それからわたしに十字を切ってくれた母の顔だった。ところがそのときわたしは、『恥ずかしいよ、みんなが見てるじゃないか』と言ったのである。『お母さん、お母さん、たった一度だけぼくのところに来てくれましたね・・・お母さん、遠くから訪ねてきてくれたお母さん、あなたは今どこにいるのです?おぼえているでしょうか、あなたが訪ねてくれたあのかわいそうな子供を・・・今ちょっとだけでいいからぼくに顔を見せてください、せめて夢の中にでも現れてください、一言ぼくにあなたを愛していると言わせてください、あなたを抱きしめて、青い目に接吻するだけでいいのです。そしてもう決してあなたを恥じてはいない、とあなたに言いたいのです。(略)』
 
 「もう決してあなたを恥じてはいない、とあなたに言いたいのです。」と、アルカージイは言うのですが、これはどういうことでしょうか。なぜそんな気持になったのか。おっかさんが恋しいからそんなことを言ったのさ、と冷笑する方もおられるかもしれません。たしかにそうかもしれません。しかし、ここにはそれだけではない理由がある。それが吉本隆明のいう「大衆の原像」です。これは大衆を偶像化するということではありません。アルカージイのように、おじぎをした母親について考え続けるということです。
 母親はなぜアルカージイにおじぎをしたのか。それはアルカージイが自分たちのような農奴の身分を脱して、社会的に上昇して行こうとしている、いや、すでに上昇していると思っているからです。なるほど、アルカージイにしてみれば、自分は貴族の子弟たちから低く見られる、ある貴族の男の私生児にすぎません。しかし、農奴であった母親から見れば、息子のアルカージイは貴族と同じなのです。それが証拠に、アルカージイは貴族の子弟が入る寄宿学校で学んでいます。このため、無学な、文盲といってもいい母親は、貴族である息子におじぎをしたのです。アルカージイがこのおじぎを一生忘れることはないでしょう。
 この母親や「おじぎ」が吉本隆明のいう「大衆の原像」なのです。つまり、自分が足場にしてのしあがってきた、その足場になった人々のことを吉本は「大衆」といい「原像」というのです。ですから、正確にいうと、「大衆の原像」ではなく、「大衆という原像」なのです。
 吉本はいつどこで「大衆の原像」という思想を得たのか。鹿島茂は私が最近読んだ吉本隆明論の中ではもっとも正確な吉本隆明論のひとつを書いているのですが、彼は吉本の文章を引用しながら次のように述べています。
 
 私が個人的に一番好きな文章である「別れ」(『背景の記憶』平凡社ライブラリー)から引用してみましょう。佃島で近所のがき連中と楽しく遊びくらしていた黄金時代に終わりがやってきたときの回想です。
 
 わたしは五年生になると早速、親たちから知合いの先生の私塾に行けといいつけられた。なぜ素直に応じたのかよくわからない。(中略)
 わたしはあの独特ながき仲間の世界との辛い別れを経験した。別れの儀式があるわけでも、明日からてめえたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。もちろん気恥ずかしいから勉強に行くんだなどと口に出さない。すべては暗黙のうちに了解される。昨日までの仲間たちが生き生きと遊びまわっているのを横目にみながら、少しお互いによそよそしい様子で塾へ通いはじめた。わたしが良きひとびとの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの感じをはじめて味わったのはこの時だった。これは原体験の原感情というべきものとなって現在もわたしを規定している。この世はどこもかも別ればかりだといいたいばあいもあれば、良きひとびとの世界からおのれを引き剥がす理不尽への異議申し立てであるばあいもある。いまもどこかで見知らぬ子どもたちがこの感じを体験しているかもしれない。その私塾の先生はわが生涯の最大の優れた教師だったが、そんなことはまだ知るよしもなかった。
 
 おそらく、吉本はこの階級離脱の瞬間の「原体験の原感情」をもとにして、「大衆の原像」を練り上げていったのだと想像できます。それは魂が最終的に戻ってゆくユートピアであると同時、その特有な「封建的優性」によって、せっかく獲得したと思い込んだ西欧的な思想・倫理を一瞬にして骨抜きにしてしまう腐食性の悪夢でもあります。しかし、この「大衆の原像」をいたずらに抑圧したり、あるいはないものと決め込んだりしては、芸術も文学も社会運動も始まりはしないのです。抜け目なくて貪欲、しかし、一方では、倫理的にもっともまっとうな「封建的優性」も同時に持ち得るのが、「大衆」の「原像」なのです。そして、その真の姿を自らのうちに取り込んで、これを否定的な媒介として止揚する以外に方法はないのです。1
 
 ここで鹿島のいう「封建的優性」とは、あとでも述べるように、「日本の封建制の優性遺伝子的な因子」2のことです。ここでは日本におけるインテリの西洋崇拝とその文化の模倣を指しています。
 私の誤読にすぎないのかもしれませんが、この鹿島の解説で私が同意できないところは、「大衆の原像」が止揚されるべき「否定的な媒介」であるという箇所です。それ以外は同意できます。
 なぜ、「大衆の原像」が止揚されるべき「否定的な媒介」であるという鹿島の読みに私が同意できないのか。それは吉本自身が「大衆の原像」を止揚されるべき、また否定されるべきものであるとは思っていないからです。私のこの読みが正確なものであるとすれば、鹿島のこのような読み方こそ、吉本が激しく非難した「普遍ロマンチシズムの虚偽」(「日本のナショナリズム」)であり、永遠に「大衆の原像」に触れ得ないインテリの傲慢な読み方です。
 要するに、吉本は「大衆の原像」を否定すべきものだとは考えず、それをそのまま認めろ、と言うのです。そのような「大衆の原像」が自分の中にもあることを認めろ、そのとき初めて私たちは思想的に「自立」できるというのです。吉本のいう「自立」とは、ドストエフスキー風に言いますと、日本の土壌から乖離しないでものを考えることができるようになる、ということです。これをもっと簡単に言うと、日本人として、自分の頭でものを考えることができるようになる、ということです。
 このため、吉本は繰り返し、自分は「インテリゲンチャ」あるいは「知識人」ではないと述べています。吉本は知識人ではないのか、と、あとで触れる呉智房のように不審に思う人がいると思いますが、吉本のいう「インテリゲンチャ」あるいは「知識人」というのは、ドストエフスキーの言葉で言えば、日本の土壌から乖離した西欧の文化によって思想的に生きている人々のことです。
 ちなみに、フランス哲学を東大で研究していた森有正もまた、そのような日本のインテリを徹底的に批判し、フランスの文化を、つまり、フランス人の共通感覚を身につけようとして、日本での家族も職も捨て、単身フランスに亡命しました。しかし、それは無残な結果におわり、森の家族が悲惨な目にあっただけでした。
 森の場合は、吉本のように日本人の「大衆の原像」を求めようとしたのではなく、いわばフランス人の「大衆の原像」を求めたと言えるのです。それは森が日本でおフランスかぶれの贋インテリとして生きることに耐えることができなかったからでした。
 立場は違いますが、吉本も日本のインテリに対して森と同じような批判を持っていました。
 たとえば、昭和八年、獄中にいた日本共産党最高幹部の佐野学と鍋山貞親は、その転向表明である「共同被告同士に告ぐる書」で、自分たちが日本の土壌から乖離して生きていたことを自己批判し、天皇制と日本民族への忠誠を誓います。
 彼らが転向したのは、コミンテルンソ連共産党の指導下にあった共産主義インターナショナル)の指令通りに動くことはできないと思ったからです。つまり、日本とソ連が戦争になるとき、自分たち共産党員は日本のためにではなくソ連のために戦わなくてはならない、というコミンテルンの指令に従うことなど到底できないと思ったからです。彼らにとっていかにソ連が思想的に正しいとしても、自分の親兄弟のいる故郷である日本がソ連に負けるような反日活動などできないと思ったからです。
 吉本はこのような転向者に「大衆的動向からの孤立にたいする自省があった」(「転向論」)と評価します。
 つまり、通常、大半の大衆は素直に国家の命令に従って国家のために戦う。自分はそのような大衆から孤立して、日本のためではなくソ連のために戦うことなどできない。そう判断した彼らを、吉本は評価したのです。
 佐野学と鍋山貞親ドストエフスキーの小説の登場人物で言えば、『悪霊』のシャートフのような人物であると言えます。シャートフは西欧の革命思想を知ったため、ロシアに革命を起こそうとします。しかし、それがロシアの土壌から乖離した振る舞いであることに気づき、転向し、ロシアの愛国者になります。このような意味で、転向した佐野学と鍋山貞親はシャートフに似ています。
 一方、吉本は、小林多喜二宮本顕治、蔵原惟人のような「非転向」者はまったく評価しません。なぜなら、彼らは生涯、マルクス主義に忠誠を誓い、日本の土壌から乖離したままその生を終えたからです。吉本はこう言います。

 社会的危機にたった場合、民族と階級とをいたちごっこさせねばならなくなる佐野、鍋山の転向と、原則論理を空転させて、思想自体を現実的な動向によってテストし、深化しようとしない小林、宮本などの「非転向」的な転回とは、日本的転向を類型づける同じ株から出た二つの指標である。
 わたしは、佐野、鍋山的な転向を、日本的な封建制の優性3に屈したものとみたいし、小林、宮本の「非転向」的転回を、日本的モデルニスムス4の指標として、いわば、日本の封建的劣性5との対決を回避したものとしてみたい。何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である。(同前)

 要するに、吉本は佐野や鍋山の転向組を日本の社会構造において優性なかたちであらわれている「封建制」(天皇制に象徴される保守的な制度)に屈した者と見、一方、小林、宮本などの非転向組を、日本社会に劣性なかたちであらわれている「封建制」(とくにアカデミズムなどに現れている西欧崇拝)との対決を回避したと見ているのです。
 私は以上のような吉本に同意します。
 ところが、吉本はその後、フロイト学説をふりまわす上野千鶴子に賛同し、自閉症児に「物語の暴力」をふるいました6。なぜあれほど「日本的モデルニスムス(近代主義)」を批判した吉本が、「日本的モデルニスムス」を信奉する上野に同調し、フロイト学説を無批判に受けいれたのか。私にはその理由が分かりません。誰にでもまちがいはあるという程度のことでしょうか。どうもそれだけではなかったように思います。つまり、吉本は私のいう「自尊心の病」に憑かれていた(私は吉本の自尊心に満ちた文章にはしばしば赤面せざるをえなかった)。このため、その病に支えられた、これも私のいう「物語の暴力」と無縁でいることができなかった。このため、つい上野の珍妙な振る舞いに同調してしまった。そんな風に思います。
 それにも拘わらず、ドストエフスキーの土壌主義やハイエクの思想を正当なものと見なしている私にとって、「日本的モデルニスムス」を批判した吉本の「大衆の原像」という思想そのものは正当なものと思われます7。したがって、たとえば、呉智英が吉本を、自分自身を大衆と見なしていると言って批判するのは的はずれだと思います。
 呉はこう言います。
 
 本書の冒頭から問題にしてきたように、吉本隆明は「大衆の原像」つまり「本当の大衆の姿」を著作の中で何度も論じている。『異端と正系』(現代思潮社、一九六〇)収録の小論「知識人とは何か」ではこんなことを言っている。
 
 庶民や大衆が日常体験を根強くほりさげることにより、知識人の世界、雰囲気、文化から自立しなければならないとおもう。かれら[知識人]のふりまく文化、イデオロギーを、擬制[虚構]的なものとして退けなければならない。

 ここには「庶民」と「大衆」が並列して出てくる。両者を区別して使っているようにも見えず、「海洋」が単に「海」を意味するように、語調を整えるためだけに並列したのだろう。吉本隆明はこの頃はまだ「大衆の原像」をキーワードとしてそれほど強調していない。それはともかく、吉本がここで言う「知識人」とは、引用を省略した前の部分で言及しているフランスの哲学者サルトルなどのいわゆる「進歩的知識人」を念頭に置いているのだが、それでもここに見るように限定詞抜きの知識人一般にも広げている。
 要するに、吉本隆明は、大衆は日常体験を掘り下げることによって知識人から自立しなければならない、と言うのである。吉本という知識人がそういうのである。大衆がそう言うのではない。大衆が我々は知識人から自立しなければならないと言ったというような話は聞いたことがない。そう言った時既に知識人の世界に一歩足を踏み入れているだろう。8
 
 このようにいう呉は、吉本が自らを大衆と見なしているということの意味をまったく理解していません。このため呉は、吉本が自分はインテリではないというとき、激しく吉本を非難するのです。
 
 その数頁前では(吉本は:萩原)こんなことも言っている。

 わたしは、谷川雁[詩人、評論家]もふくめて、インテリゲンチャ(わたしはインテリゲンチャではないが)が、大衆論をやるばあいに、サークル運動や、大衆記録を種にして大衆の性格を論ずるのが不可解でならない。

 サークル運動(勉強会などの啓発運動)や大衆記録を批判することは今問題にしないとして、吉本隆明は自分がインテリゲンチャではないと言うのである。「インテリゲンチャ」とはロシア語の「知識層」という意味である。この言葉には十九世紀ロシアの歴史的事情が反映している。一個人が「知識人」であるというだけではなく、それが一つの階層として出現し、傾向や程度はそれぞれだったとしても社会の現状に批判的な意識を持つという含意がある。「インテリ」と略して言うことも多く、一般的に「知識人」という意味で広く使われており、それで特に問題はないのだが、「あるベクトルを持った知識人」ぐらいに理解しておけばもっと正確だろう。
 それにしても、驚くべきは、吉本隆明が「わたしはインテリゲンチャではない」と宣言していることである。じゃあ、吉本は大衆なのか。東京工業大学を卒業し、詩人であり、評論家であり、著作が何冊もあって、しかも大衆なのか。理解に苦しむ発言である。
 これは今言った「ベクトル」に関わってくる。前節で論じた「思想的弁護論」にこんな一節がある。
 
 「進歩的知識人」によれば、これらの大衆は未熟な啓蒙すべき存在であり、憲法感覚とやらを身につけねばならず、憲法=法国家を守らねばならないとされるのである。

 私は、進歩的知識人だろうと保守的知識人だろうと、そして大衆だろうと、憲法の思考方法という意味での憲法感覚を身につけていた方がいいと思う。(略)

 という風に呉の吉本批判は続いてゆきます。
 呉はなぜこのようにまちがった吉本批判をするのか。それは、呉には、吉本のいう「日本的モデルニスムス」の意味がよく分からなかったからだろうと思います。このため、呉には、吉本がなぜ大衆を思想的に「啓蒙」するのはまちがっているというのかが分からない。吉本がそういうのは大衆をアンタッチャブルな偶像として奉っているからではありません。
 吉本によれば、大衆を思想的に「啓蒙」できると思う人は、日本の土壌から目をそむけて生きているのです。そのような人は、呉のように、吉本がなぜ大衆を思想的に「啓蒙」するのがまちがっていると言うのかが分からない。また、森有正がなぜフランスに「亡命」したのかも分からない。つまり、そういう人には日本の知識人というものが大衆から孤立した、人工的な、したがって空虚な存在であるということも分からない。
 このため、呉のような人々には依然として、大衆と、大衆から切り離された、しかし、空虚な存在ではない知識人というものが存在し続けているのであり、したがって、彼らにとっては、知識人が大衆の前衛となって大衆を啓蒙し指導すべきか否か、というような「大衆と知識人」論争が、今もなお可能性としては成立しうるのです。もっとも、それは成立しうるとしても、空虚な仮想空間の中で成立するのにすぎません。


1 鹿島茂、『吉本隆明1968』、平凡社新書、2009、pp.420-421
2 『吉本隆明全集5』、晶文社、2014、p.369
3 すでに述べたように、ここで吉本のいう「優性」とは、生物学において「優性遺伝子」という言葉で使われる「優性」のこと。反対語は「劣性」。
4 日本的モデルニスムス:欧米の思想・文化を無批判に受けいれること。
5 封建的劣性とは、日本の封建的な社会に外部(外国)から入ってきて、その封建制によって変形させられて存在するもののこと。
6 拙稿、「物語はなぜ暴力になるのか」、『言語と文化』第四号、大阪府立大学言語センター、2005、309
7 「ドストエフスキーを読む(2017)」配付資料2(2017年5月6日配布)参照。
8 呉智英、『吉本隆明という「共同幻想」』、筑摩書房、2012、pp,113-114