(続々)亀山郁夫の「100分de名著」

 正月に、たまりすぎたテレビの録画を消去していて、偶然、亀山の「100分de名著」の最終回(第四回)を見てしまった、ということについてはすでに述べた。見なければよかったのだが、見て、不愉快になり、ついブログに不愉快になった理由を書いてしまった。ところが、記憶があいまいなまま書いたため、批判が中途半端になってしまった。そのことについても続きのブログに書いた。しかし、テレビの録画だけでは亀山の主張がよく分からないので、結局、NHKのそのテキストを購入して読んでみた。
 読んで、余計に不愉快になった。そこには亀山がこれまで書いたことが反復されていた。私からすれば、亀山の解釈のそのほとんどが根本的に間違っている。亀山は自分でも述べているように、江川卓の「謎解き」シリーズのドストエフスキー論を踏襲している。私はこれまで江川卓のそのシリーズが荒唐無稽なものであると同時に無意味なものであると何度も書いてきたし、それを論文にもした。亀山のドストエフスキー論についてもこのブログで批判してきた。
 江川と亀山はそのドストエフスキー論において、なぜ間違うのか。それは、彼らには私のいう「自尊心の病」というものがまったく分かっていないからだ。それはドストエフスキーが根本的に分からないということだ。
 たとえば、亀山は「100分de名著」のテキストでも傲慢について触れている。しかし、傲慢の意味が分かっているとはとても思えない。傲慢、すなわち、私のいう自尊心の病とは、無神論者にとり憑く病であり、デカルト以降の近代の人間中心主義あるいは合理主義の根底にあるものだ。そのような近代の人間中心主義が結局、フーリエマルクスなどの革命思想にかたちを変え、ロシア革命に至る。
 亀山が空想する『カラマーゾフの兄弟』の第二の小説で、亀山はアリョーシャの自己犠牲によって帝政権力と革命勢力の和解の第一歩が実現すると述べている。しかし、このブログの「(続)亀山郁夫の「100分de名著」」でも述べたように、ドストエフスキーにとって革命勢力とは無神論者の集まりのことだ。このため、ドストエフスキーは『悪霊』でそのような革命勢力を、自尊心の病のことを指す「悪霊」に憑かれたモッブ(ハナ・アーレントの用語で、全体主義を支える群衆のこと)として描いたのである。また、これも私がすでに述べているように、ドストエフスキーは『悪霊』を書いていたとき、回心し、分裂していた自己をひとつにした。このため、革命勢力を徹底的に批判することが可能になったのだ。亀山の言うように、『カラマーゾフの兄弟』を書いていたとき、ドストエフスキーが自己分裂(信仰か革命かという分裂)の中にあったと言うことはできない。ドストエフスキーは信仰者として統一されたのだ。そのため、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に、ヨハネ福音書の一粒の麦の話を掲げたのである。
 繰り返すが、このブログの「亀山郁夫の「100分de名著」で述べたように、その一粒の麦の話は自尊心の病に憑かれた無神論者を批判するものだ。それをエピグラフとして掲げた『カラマーゾフの兄弟』において、アリョーシャが無神論者の革命勢力とキリスト教を国教とする帝政勢力の和解のために自らを犠牲にするというような亀山の作り話は成立しようがない。亀山は『カラマーゾフの兄弟』を書いていたときにもドストエフスキーには自己分裂があったという。しかし、私が繰り返し述べてきたように、そのような自己分裂は『地下室の手記』から始まり『悪霊』において収束したのである。亀山のいう第二の小説は空想としても成立しない。
 しかし、こう言っても、自尊心の病に憑かれた人たちには、私の言うことがさっぱり分からないだろう。そういう人のために私はいまドストエフスキー入門書を書いているので、それを読んで頂きたい。